実務官人の頂点に

 音人は、弘仁(こうにん)二年(八一一)の生まれ。父母はすでに述べたとおり。父が本主、祖父が諸上(もろがみ)ということは確かなのであろうが、諸上と真妹との関係は定かではない。したがって、音人と和(高野)新笠との関係もわからない。

 薨伝には官歴が載せられていないが、紀伝道について菅原清公(きよきみ)に師事し、天長(てんちょう)十年(八三三) に二十三歳で文章生、承和(じょうわ)四年(八三七) に二十七歳で文章得業生となり、「本朝秀才のはじめ」と称されたものの、『公卿補任』によると、承和九年(八四二)に承和の変に連座して尾張国に配流されたらしい。長徳(ちょうとく)四年(九九八)に音人の子孫である匡衡が尾張守に任じられ、妻の赤染衛門(あかぞめえもん)を伴って任地に下った際、先祖の音人がこの地に流されていたことを『朝野群載』所収「熱田宮に男挙周(たかちか)、明春、侍所を望むを祈請する状」に記している。

 その後、許されて復帰し、承和十三年(八四六)に三十六歳で少内記に任じられ、嘉祥(かしょう)元年(八四八)に三十八歳で従五位下に叙され、大内記に上った。嘉祥三年(八五〇)には惟仁(これひと)親王(後の清和[せいわ]天皇)の教育係である東宮学士に任じられた。仁寿(にんじゅ)二年(八五二)に民部少輔、仁寿三年(八五三)に大内記、斉衡(さいこう)三年(八五六)に左少弁を兼任したが、東宮学士は元のとおりであった。よほど惟仁親王の外戚である藤原良房(よしふさ)の信任を得ていたものと思われる。後に清和天皇の侍読、良房の顧問も務めている。

 その後も天安(てんあん)二年(八五八)に惟仁親王の即位に伴い式部少輔、また右中弁を兼ね、貞観元年(八五九)に四十九歳で権左中弁(式部少輔は元のとおり)、貞観三年(八六一)に左中弁、貞観五年(八六三)に右大弁に上り、出世の階段を上っていった。その能力のなせるわざであろう。

 そして貞観六年(八六四)、ついに五十四歳で参議に任じられ(それでも右大弁は元のとおり)、公卿の地位まで上りつめた。その出自から考えれば、異数の出世と言えるであろう。

 さて、貞観八年(八六六)十月十五日、大枝姓から大江姓に改姓することを請い、これを許された。枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる事(「下克上」)にもつながり不吉であるとの理由であった。しかし大枝姓は桓武天皇から賜った姓であることから、すべてを変えるわけにもいかず、読み方はそのままで漢字表記のみの変更に留めた。また、大きな川(江)のように末永く家が栄えるようにとの意味があるという(『日本三代実録』)。

 音人の方は、貞観九年(八六七)に左大弁を兼任し、実務官人の頂点に立った。貞観十六年(八七四)には従三位に叙され、名実ともに公卿となった。

 この間、薨伝にあるように、音人は特に勅を承って、『群籍要覧』と『弘帝範』、そして『貞観格式』を撰定した。その上表文と式序は、音人の作であるとある。貞観十三年(八七一)には『日本文徳天皇実録』撰進の命も受けているが、これは元慶元年に音人が死去したため、菅原是善を加えて元慶三年(八七九)に完成された。

 薨伝によれば、音人は性格が静かで落ち着いており、外見は飾り気がないようで口数も少なかった。眉が広く目は大きく、大柄で立派な顔立ちをしており、風格もあった。声も大きくて美しかったという。まさに大人の風格を持った人物であったと言えよう。

 そして元慶元年、六十七歳で薨去したのである。家集として『江音人集』一巻、別に『音人伝』一巻があったとされるが、現在は散逸してしまっている。

 なお、末永く家が栄えるようにと大江姓に改めたのではあったが、子孫は学者としては名声と地位を受け継いだものの、貴族としては中級官人の地位に甘んじた。音人の子は、九人の男子が知られるが、官位がわかるのは、玉淵(たまふち)が従四位下、千里(ちさと)が正五位下式部権大輔、千古が従四位下伊予権守が知られるのみである。千古(ちふる)の子孫が、匡衡・匡房、そして広元となる。

 それでも歌人や学者として名を残し(和泉式部[いずみしきぶ]も大江氏)、「江家」と称されて近代まで続いたのであるから、泉下の音人もさぞや満足なことであろう。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)