「ありものでなんとかする」メンタリティ
■『長屋の花見』のあらすじ
長屋の体たらくな連中に大家から呼び出しがかかった。店賃(たなちん=家賃)の催促だろうと、どのくらい溜まっているかとみんなで話し合うと、「3年」、「おやじの代から」、中には「1回」と「毎月1回」払っているのと思いきや、「引っ越して来た時、1回払ったきり」という奴までいる。
さらには「店賃はもらったことがない」というご存じ与太郎までいる有様。店子(たなこ)そろって大家の家へ行くと、「長屋中で景気づけに上野へ花見に行こうという話」を大家から持ち掛けられる。しかも酒、肴は全部大家持ちという。
ほっとして喜んでは見たものの、よくよく聞いてみると、酒は番茶を薄めた「お茶け」。かまぼこは大根の薄切り、玉子焼きはたくあんという「ありあわせ」でやり過ごすというノリだった。
私の師匠・立川談志のそのまた師匠にあたる柳家小さんの名演が光ります。余談ですが、談志は『長屋の花見』を生涯演じることはありませんでした。このようなほのぼの路線は、自分に似つかわしくないと見切っていたのかもしれません。
もうすぐ日本各地でさくらが開花し、花見のシーズンが到来するので、『長屋の花見』も寄席にかけられる機会も増えてくるかと思いますが、なぜ、この演目が長く演じられ続けているのか。それは、そこに描かれる日本人が本来持っているメンタリティに共感を抱くからでしょう。

『長屋の花見』では、長屋の住人たちが「あり合わせのもの」で花見を楽しみます。厳しい懐事情をみんなで分かち合う、「貧乏のシェア」とも言えるメンタリティです。「ないものを嘆くより、あるものに目を向けて人生を楽しむ」という江戸庶民の知恵が、ここに活写されているのです。
さすが、雁(がん)の肉の代わりとして精進料理で「がんもどき」を生み出した国ですよね。
考えてみれば、そもそも落語家が落語を演じる際に使う「扇子と手拭い」こそ、まさにその辺にある「あり合わせ」の象徴です。それらを、想像力の限りを尽くして本や煙管(きせる)、箸などに模して豊かな情景描写を生み出し、笑いに変えてきたのです。
そして、さらに注目すべきは、奇しくも、『長屋の花見』の登場人物は、みな、独身男性ばかりという点でしょう。