ユニフォームを脱いだ最後の試合
日本製鉄鹿島はベスト8まで勝ち進むが、準々決勝で延長戦の末に三菱重工Eastに敗れた。試合後の中島は、「都市対抗優勝チーム(三菱重工East)を相手によくここまで追い込めた」と熱戦を振り返り、こみ上げるものを堪えながら、しみじみ「熱くなったり、感動したり、野球の力って本当に凄いですよね」と言葉を絞り出した。この試合を最後に中島はユニフォームを脱いだ。
なぜ、そんなにも選手たちに愛されたのだろうか?
「こいつら(選手たち)のオヤジだと思ってやっていたんで」と中島は言う。「でも、初めからこうだったわけじゃない。少しずつこうなってきたんだよ」と感慨深く振り返る。
チームの立て直しを課せられた2度目の就任時、指導のスタイルをガラリと変えた。
1回目の監督の時には、選手との間に明確な一線を引き、距離をあえて作った。気軽な会話はほとんどしない。馴れ合いを許さず、たとえば挨拶でもスポーツ選手特有の「チワース」を「こんにちは」に徹底させた。
「なったばかりの頃は、年齢的にも選手と近かったので、近くに行きすぎて節度がなくなってしまうのが怖かったんです。選手に情が湧けば、厳しい采配ができなくなる。そういう不安がすごくあって」
中島は当時の心境をそう振り返る。それが、五十代になり選手との年齢差が開いた2回目の監督では180度、方向転換した。
毎年選手が入れ替わっていく中で、都市対抗も日本選手権も経験したことがない若い選手が増えていた。「これは何かを変えなきゃダメだな」と痛感する。スタッフとも話し合い、練習はより厳しいものに、ある種のスパルタ方式を導入した。
その代わり、ひとたび練習を終えたら、私生活も含め、距離をなくそうとした。とはいえ、世代が変わって今度は選手が自分に対して簡単に近づいてはこなかった。だから自分が降りていく必要があった。
「年齢差もあるし、こちらが線を引かなくても当然ギャップはあるわけですから」と言う。心理学の先生に話を聞きに行ったこともある。そこで社会人野球における「監督と選手」は「先生と生徒」の関係とは違うことを学んだ。
「言ってしまえば、同じサラリーマン同士。でも、僕が給料を払って雇っているわけじゃない。じゃあ僕の仕事は何なのか? 彼らがよく働いてくれることが僕の評価、給料になるわけで、だから選手たちがいかに気持ち良く働いてくれるか、野球がやれるかを考えることが俺の仕事なんだと考えるようになりました」