支援の輪は巡る

小野さん:日本は約2500人のウクライナ避難民を受け入れました。私たちは日本に感謝しています。日本にとっては経験がないことで難しい決断だったと思いますが、別府市は特にウクライナ避難民の支援に積極的で、住居、書類、医療、教育など多方面で支援を行いました。地域の店や農家、人々もとても協力的で、コンサートやイベントに招待してくれました。

 しかし、時間が経つにつれて、支援への関心は薄れ、寄付も大幅に減少しました。私の組織は今、さまざまな助成金に申請して、活動資金を確保しています。現在、私たちは文化センターの建設、ウクライナの家屋復旧のための中古機器の送付、そして戦争障がい者のためのリハビリセンターをウクライナのハルキウに建設することを目指しています。

ウクライナのお菓子も人気だ(写真:筆者撮影)

——このところ日本では物価高で支援したくてもできない人もいると思います。お金以外では、どんな支援を望みますか?

小野さん:もっと触れ合いが増えてほしいです。イベントやコンサートなど、一緒に出かけたりしたいですね。私だけではなくて、みんなウクライナ人はそう言っています。一緒に楽しく時間を過ごしたいですね。

——ウクライナの何が一番恋しいですか?

小野さん:ウクライナ人は話すことが大好きで、家に帰るとドアは開けたままです。ずっと隣の人や親戚が来るのです。その雰囲気を、また味わいたいと思います。

     ◇     ◇     ◇

 インバウンドの観光客などが行き交う別府駅で小野さんの父親、オレクサンドルさんがピロシキなどを売っている姿を見かけたのは、つい最近のことだ。思い切って声をかけてみると、日本語と英語が通じず、携帯の翻訳機能を通して一生懸命話をしてくれた。

 言葉や文化の異なる異国の地でいつ故郷に戻れるとも知れず、駅に座り続ける日々を送るオレクサンドルさんを思うと、胸が痛んだ。

 別府の市民憲章には「お客さまをあたたかく迎えましょう」という一文がある。他所から来た人々にも気さくに話しかけ、暖かく迎えてくれる別府だが、それでもウクライナからの避難民が定住し、暮らし続けるには、言葉の壁など様々な困難が伴うことだろう。

 筆者は2011年3月、たまたまセルビア共和国の首都ベオグラードを訪れていた。街を歩くと幾度となく、直前に起きた東日本大震災のことを心配する見知らぬ人々にあちこちから駆け寄られ、声をかけられて仰天した思い出がある。後に、90年代、同地での紛争により国際的な制裁を受ける中で、日本からの支援をずっと忘れずにいてくれたセルビアの人々がいたことに驚愕した。震災に際し、セルビアからは多額の寄付が寄せられた。

 物価高で厳しい生活を強いられる現状、避難民支援を継続することはたやすいことではないかもしれない。それでも、繋がれた手の温もりは長く人々の心に残り続け、支援の輪はやがて巡ることを信じてやまない。

楠 佳那子(くすのき・かなこ)
フリー・テレビディレクター。東京出身、旧西ベルリン育ち。いまだに東西国境検問所「チェックポイント・チャーリー」での車両検査の記憶が残る。国際基督教大学在学中より米CNN東京支局でのインターンを経て、テレビ制作の現場に携わる。国際映像通信社・英WTN、米ABCニュース東京支局員、英国放送協会・BBC東京支局プロデューサーなどを経て、英シェフィールド大学・大学院新聞ジャーナリズム学科修了後の2006年からテレビ東京・ロンドン支局ディレクター兼レポーターとして、主に「ワールドビジネスサテライト」の企画を欧州地域などで担当。2013年からフリーに。