「地方競馬の怪物」ハイセイコーの弥生賞
JRA(中央競馬会)では年間に重賞レースを全138レース設定しています。内訳はG1=26レース、G2=38レース、G3=74レースとなっていますが、ハイセイコー、テンポイント、牝馬のテスコガビーが活躍した1970年代には、年が明けても4月に行われるクラシックレース「桜花賞(牝馬の1冠目)」「皐月賞(牡馬の1冠目)」まで今のG1レースに該当するような大きなレースはありませんでした。
現在では、4月に開催される桜花賞まで、フェブラリーステークス(2月23日)、高松宮記念(3月30日)、大阪杯(4月6日)という3つのG1レースが開催され、月ごとにファンを楽しませてくれています。
では、こうしたG1レースが設定されていなかった当時、1月から3月までの期間は盛り上がりに欠けていたかというと、そんなことはなく、我々ファンがG1レースを見つめるのと同じような熱視線を注ぐレースはいくつもありました。その一つが前述のG2レースを中心としたトライアルレースです。
前述のハイセイコーは公営・大井競馬から「地方競馬の怪物」として中央競馬に移籍、1972年3月4日、移籍後初のレース・弥生賞(現在だとG2に該当か)が中山競馬場で行われ、12万3000人ものファンが押し寄せました。テレビ観戦していた私にも、現地の興奮ぶりが伝わってくるようでした。
ハイセイコーは勝利しましたが、ファンの期待するようなぶっちぎりの勝ち方ではなく、2着馬との差は1&3/4馬身でした。
理由は明白で、ハイセイコーがそれまで出走していた公営競馬と中央競馬の馬たちとの実力の相違、ハイセイコー得意のダートコースではなく芝コースだったこと、あまりにも多い観衆の声に馬たちが平静でいられなかったこと、距離が1800メートルに延長されハイセイコーにとって少し長かったこと等々あげられましたが、これらはすべて後付けの説明にすぎません。
当時は血統に詳しい人や、その馬の適距離や芝・ダートコースの巧拙について語れる人も数少なく、馬の評価は出走歴での勝ちっぷり、着差、母馬の実績くらいの情報でマスコミや専門家のみなさんが判断していたからでしょう。