視聴者は「内容」を期待していない
以下は当時のスタッフとの打ち合わせ時の話です。
この当時、すでにインターネットが十分に普及しており、「内容に興味のある人はネットを見る」というのです。
テレビ番組は、MCやタレントの顔ぶれは見るけれど、そこに「内容」をほとんど期待していない。
好感を持つタレントが「出ている」ことが「チャンネル権」奪取の上では重要で、ブッキングが8割という状況に、すでに2000年代にはシフトしていました。
これは「20世紀のテレビ現場」で揉まれた私には、なかなかなカルチャー・ショックでした。
番組は本来「中身」あってのコンテンツだった。
今回のフジテレビの問題を、乱暴に総括することはできません。
しかし、少なくとも「局内での立身出世が、大物芸能人との関係の近さで決まる」「番組制作はタレントまかせ、プロダクションまかせ」といった、制作モラール崩壊の事態に関しては、日枝氏やその世代に「責任」を求めるのは筋違いであることを指摘しておきたいと思います。
「楽しくなければテレビじゃない」のフジ黄金時代を作り上げたのが1980年代の日枝編成局長。
常務就任の86年、社長に就任した88年以降の「現場」についてすでに経営陣となっていた日枝氏らに水を向けるのには、やや違和感があります。
昭和の「テレビ屋」は、あれこれとスポンサーや局を騙しては、やりたいことをやるのに、テレビという箱を使い回していたものです。
ところが、ネットが普及して守勢に回ったテレビ産業は、よく分からない「視聴率」という数字をキープするのに「好感度の高い芸能人をキープ」することが生命線、みたいな空気に変わってしまった。
問題のない番組名を使うなら「森田一義アワー 笑っていいとも!」みたいな「冠番組」メインの芸能人を契約するのは「局」のプロデューサーなんですね。
外枠が決まると、実際に現場で番組を作っていくのは「プロダクション」のスタッフ、ディレクターさんでありADさんであり、普通に番組を作る役の人がいるわけです。
実は、その大半は局外の「プロダクション」スタッフで、むしろ「局アナ」などがタレント同様「ブック」されてその枠に入っている・・・といった状況になるわけです。
この構造そのものは、私が「題名のない音楽会」を作っていた時期でも、すでにそうなっていました。
テレ朝社員のプロデューサーは、要するにブッキングの契約と「お金の勘定」に責任を持つ役割。
例えば、問題ないと思うので実名を挙げれば、テレビ朝日の大石泰・元プロデューサーは「題名」や「徹子の部屋」のP(プロデューサー)として、両番組の財務とゲストを誰にするかといったブッキングには責任を持ちますが、現場でのディレクションにはあれこれ口や手を出しません。
マジメを絵に描いて結晶したような大石さんは、50歳前後で東京芸術大学演奏藝術センター助教授に転身。
それくらいカターい現場ですら、潔癖症で通した私でしたので、耳にする様々の「業界の噂」は耐え難く、34歳で現場卒業となったわけです。
「題名」でも、実際に現場で番組を収録、編集し完パケる(完全に番組パッケージとして放送に耐えるコンテンツを仕上げる)のは、外部委託のプロダクション、つまり「業者」スタッフが切り回していた。
局の女子アナは「題名」でもアシスタント起用されていましたが、本読みから入ってきて仕事を淡々とこなしており、スタッフ・チーム的にはやや「お客さん」の感がありました。
分かりくくなってもいけないので、まとめてみましょう。
要するに「テレビ局」の社員は「プロデューサー」としてお金の責任を持つ人が中心。
プロデューサーの主要な仕事の一つは、視聴率を主に左右する「大物芸能人」のブッキングなど、収録以前の調整が大半です。
実際の打ち合わせやロケハン、収録や生本番などの現場は、テレビ局員というより、外部業者のプロダクションが多くの役目を果たしている。
今回の「中居事件」で、「テレビ局員」は「大物タレントとの関係づくりで昇進が決まる」とか「アナウンサーが接待要員相当」といった話が流れています。
その大本に「インターネット登場以降のテレビの変質」、もっと言えば「テレビに内容を期待しなくなった視聴者の変容」があるように思われます。
さらに言えば「お金の計算が主要な仕事となったテレビ局員」(もっと露骨に書くなら「テレビ局員になると、むしろ番組は作らない=作るのはプロダクション」)といった、メディア全体の空洞化を指摘する必要があるように思います。
「爆笑問題」太田光が正月特番でフジテレビの「存亡」に言及したと報じられました。
ことはフジだけでなく、地上波テレビの経済構造全体、もっと言うなら、不可思議な「視聴率」によって振り分けられていく巨額な「企業広告費」の惰性で転がり続けていたインターネット登場以降のテレビというメディアそのものが、耐用年限を迎えつつあるといった印象を持たざるを得ません。