蓬莱山は日本にあった?
宝船に始まり、次々に現れる瑞祥のかたち。特に目につくモチーフが蓬莱山だ。蓬莱山は中国神話に由来する伝説の山で、『列子』湯問篇によれば「蓬莱山ははるか東の海上にある神仙の住みか“五山”の一つで、そこに生える実を食せば不老不死になる」、前漢の司馬遷による『史記』封禅書には「蓬莱山を東の海上の“三神山”の一つとし、禽獣はすべて真っ白で、金銀でできた宮殿がある」と記載されている。
蓬莱山の伝説は日本でも早くから定着した。たとえば、『日本書紀』に出てくる丹波国の浦嶋子の物語。浦嶋子は“浦島太郎”と同一とされる人物で、物語では浦嶋子が助けた亀に連れられて蓬莱山に至ったと記録されている。蓬莱山は吉祥図のおなじみの画題となり、あまたの絵師が縁起物として蓬莱図を描き上げた。

狩野常信《蓬莱図》(展示期間〜2/2)には、巨大な亀の上に白い州浜が乗り、その上にそびえる蓬莱山が描かれている。ごつごつとした険しい姿の山肌に、咲き誇る桜の花。この蓬莱図は明治天皇大婚25年の記念に政治家・根岸武香から献上されたもので、今回が初公開になる。

江戸時代初期の絵師・岩佐又兵衛が、貴族の子として生まれた小栗と関東の豪族の娘・照手の恋物語を絵画化した大作《小栗判官絵巻》にも蓬莱山が登場する。蓬莱山が出てくるのは、全二十六巻、総延長330メートルに及ぶ絵巻のうち、第八巻、婿入りした小栗に怒った照手の父横山が小栗を宴に招いて殺害しようとする場面。座敷の広縁に蓬莱山を背負った大亀の作り物が置かれている。本作は明治28年、岡山藩家老を務めた池田長準より、広島滞在時の明治天皇に献上された。
さてこの蓬莱山、前述した通り、中国から見て東の海上にあると信じられていた。ということは、その場所は日本? 秦の始皇帝は方士(道教のシャーマン)である徐福を東方へと派遣し、不老不死の薬を求めた。徐福は日本にたどり着き、熊野、福岡、京都、愛知などに徐福渡来の伝説が残されているが、中国五代の僧・義楚は「倭国にある富士という山こそが蓬莱で、徐福が辿り着いた所だ」と述べている。そんな伝承もあり、理想郷としての蓬莱山は富士山の姿と重ねられるようになった。

吉祥画題として欠かせない富士山。本展には横山大観《日出処日本(ひいづるところにほん)》が出品されている。生涯に約2000点もの富士山の絵を描いた大観だが、本作はそのなかでも最大級の大きさ。朝陽に輝く霊峰の堂々たる姿がとらえられているが、江戸時代の大噴火でできた宝永山の姿は描かれていない。これは大観のこだわりで、日本の国土を象徴する富士山は最も理想化された姿形で描かれるべきものだと考えていたという。