4時間目 「創」合的学習?

HAIGA(俳画)の国際発信

 さて、1時間目から3時間目まで準備した素材を画面にあしらって、英語版の「俳画」を、レイアウティングの遊びで作ってみましょう。

 最初のソネット風は、上品に線の細いフォントでまとめてみましょうか。

 こんなふうにすると、単なる赤い円周群が、初日の出の光の輪の群れのようにも見え、また左側の余白、「間」が「白き峰」と呼応して感ぜられたりするから面白いものです。

 後者の「間」の議論は建築の磯崎新さんが好きでしたが、これをAIでは感知不能な錯覚の問題として位置づけ直して、大変喜ばれたのを思い出します。

 2番目、お年玉はセリフですから、改行を含めて画面に舞台的な動きを作ってみましょう。

 こんなふうにすると、左下から右上に向かって消えていくような、ある遠近感を、テキストと形の連鎖だけで稜線づけることができますね。

 かつてジョン・ケージはこういうイタズラをしては、「そんなものは錯覚だよ。ただのタイプのインクの染みでしかない」とかごまかしつつ、ウインクしてニヤニヤ笑っていたものです。

 しかし、そういう遊びを直接教えてやると、若い人は短い期間でも驚くほど伸びるものです。

 最後はさらにもう少しだけ、踏み込んで遊んでみましょう。今年は私も年男ですので、ニョロニョロバージョン。

 こいつに「2025」と年号を入れるだけで、読者の皆さんへの年賀状に早変わりするので、なかなか便利でもあります。

「これはなんだ!」という英文と、ニョロニョロの無定形さが呼応して、意外な面白さが出てきた気がします。

 また、赤い線なのに、中央のピークが「白き峰」に見えたりもする。面白いものですね抽象というのは。何も意味しないから、何でも含意する。

 そしてすべてはしょせん鑑賞者が見る「錯覚」に過ぎない、とケージもデュシャンも、私自身も黙ってニヤリと笑うわけ。そういう流儀です。

 また同時に、そうした錯覚こそ、ヒトの脳だけが持つ、決して機械学習とそのアクセサリ・システムが持たない、人間ならではの価値の根源、と子供には教えます。

 シュールレアリズムやダダの精華を踏まえてAIでサイエンスを教えるのは、米国特にMIT(マサチューセッツ工科大学)あたりでは無理な芸当で、日本は甘利俊一・福島邦彦の原点以来、独自の道を進むのが正解と心得るわけです。

 なお、これから3学期、いま私自身がやって見せたのと同様に、中学生たちに創ってもらう生成AI支援作品は、面白いものを選考して、5月に東京都美術館で開催する「創発展」で発表展示なども考えています。