1時間目 初春を詠む
俳句の生成
いきなりですが「俳句」です。小学1年生にも出題する内容を、ここでは高度に進めてみます。
新年ですので、子供たちと「新春の俳句」芭蕉のスタイルを詠んでみましょう。STREAMMでは、AIにこんなふうに注文を出します。
AIは、
① 初日の出 山の端にて 春を待つ
② 松飾り 門に寄り添う 年の始め
③ 鏡餅 笑顔映して 家族円
と3つ詠んできました。
で、これらはいかにもな贋作。このままでは凡庸な下書きでしかなく、人前に出せるものではない、と教えるのが重要な点です。
つまり、これを組み替えるところから仕事が始まると教えるのです。
上の3つはどれも常識的で何の驚きはありません。でも、「初日の出」が「山の端」は当たり前だけれど「門に寄り添う」はちょっと意外ですね。
「初日の出」「門に寄り添う」・・・あたりで考えをとめておきます。そして次に、
と尋ねてみると・・・。
初富士や 雲間にのぞく 白き峰
大根や 臼の音高し 餅つきて
初詣 赤き手袋の 子の列ぶ
芭蕉と大きく異なる近代人、正岡子規の「写生句」の特徴を、単に受け身で鑑賞するのと違ってダイナミックに享受する高度な教材に洗練されていく。東大STREAMMの1の1です。
ここで「スタイルの混淆」という、人によっては怒られそうなポストモダンの手法を導入してみましょう。
「初日の出」「門に寄り添う」 の後に「白き峰」は、決して成立しない下五ではない。あるいは、
「大根や」+「赤き手袋の 子の列ぶ」というのも単なる初詣と違う、別の情景を彷彿させます。
いま私がここで句評を始めると驚かれるかもしれませんが、亡くなられた俳人の金子兜太さんと私が意気投合した背景に、私の母方が岡山・津山藩で詩・画・書の家であったことが関係しています。
例えば母の大叔父、尾上柴舟(1876-1957) の「短歌滅亡私論」は文学の現代化に扉を開き、彼の早稲田での門人たち、若山牧水や北原白秋らが自由な作品表現を追求しました。
尾上自身は「古今伝授」で古い世界にとどまりましたが・・・。
そうした背景もあり、中学時代からの作曲の師、松村禎三から私が音楽書法を習ったのも、実は俳句の言葉、句作の実践と表裏一体でした。
そういう私の方法で、以下ご教授いたしましょう。
東大入試程度であれば、普通に取り組めば普通に合格というより、合格後、学内で大きく伸びる他力に繋がること請け合いです。