交接の相性と口唇性交について
交接の態位で重視されるのは男女の性器の大きさである。
『カーマ・スートラ』では小さい順にペニスは「兎」、「牛」、「馬」。膣は「鹿」、「馬」、「象」の 3階級に分かれている。
交接では、互いの性器大きさの組み合わせが相性の良し悪しとなるのだが、セックスをする際、男女それぞれの性器の大きさがジャスト・フィットするのが理想であり、例えば女陰が小さくて入り口が狭い「鹿女」が同階級の「兎男」とセックスすることは問題ない。
だが、サイズが異なり巨根の「牛」や「馬」並の男と、入り口が狭い「鹿女」との、いわば無差別級対抗戦状態ともいえる交接となれば、下腹部を上げ気味に挿入する態位、太ももを高く上げ足を水平にする態位、仰臥し、膝を折り太ももを広げて抱きかかえながら挿入する修法が推奨されている。
フェラチオも古代社会から日常的に施されてきた性愛方法である。
マヌ法典は、「婦人の口は常に浄し、果実を落とさんとせる際の鳥もまた同様なり、仔牛は母牛の乳の流るる際は浄く、犬は鹿捕えたる時は浄し」とある。
『カーマ・スートラ』には、口唇性交の細かなテクニックの記述がある。
例えば愛撫や接吻から始まり、口唇でペニスの先端を締めつける内圧や、喉奧まで激しく吸いながら勢いよく放つ修法とさまざまな修法が詳解されている。
古代において既に考えつく限りの性愛方法は開発されていたのだ。
『カーマ・スートラ』の哲学
『カーマ・スートラ』が示す男女の交接は、外見的には普通のカップルで行うセックスと変わりはない。
だが内実は全く違ったものだ。
そのため双修法では男性の3次元的な射精は消耗と考えられ、少なくとも物理的な射精は行われない。
その理由は、射精とはあくまでも生殖のための行為であり、肉体的な物質レベルの現象に過ぎないからである。
『カーマ・スートラ』が示す、セックスで得ることのできる身体的エクスタシーは、通常のセックスすることで得られる肉体的物質的なエクスタシーなどとは比べ物にならないという。
それは男女が繋がり合うことで互いの観想を同調させ、意識を集中させることで超物質プラーナ(呼気)と性エネルギーであるシャクティの交歓と循環を促し、シャクティを昇華させることで、男女2者が共に神と合一、融合することで幾重にも増幅されたエクスタシーがもたらされるというのだ。
その法悦は徐々にゆっくりと広がってゆくもので、ここでの快楽神経によるエクスタシーと射精による一過性の性的快感の質と次元が明らかに異なるという。
では、私たち一般人が神との合一するためのセックスは、いかに実践すれはいいのか。
そもそも性を漏らしてはこの修道は成就しないため、まず行うべきはセックスをしていても漏らさない練習をする必要がある。
まずは体を密着させてゆっくり深く挿入すると、性器を結合した状態で、できるだけ長い時間、射精をしてはならない。
だが性器に刺激を与えなければ、これはある程度可能だろう。
次に呼吸を意識する。男性が息を吸うとき女は息を吐き、女性が息を吸う時男性は息をはくことで、男女2人の呼気に循環が生まれる。
このとき男女は共に肛門と性器の間に存在する性エネルギー・シャクティが、中央脈管(スシュムナー)を上昇することを観想しながら、できるだけ息を長く吐き、そして長い時間かけて吸い込むことを繰り返す。
どちらかが射精したくなったりオルガズムに達しそうになったりしたときには息を止める。
それを繰り返していくうちに、性エネルギーが覚醒すると上昇し始め、次々に必要なチャクラが発現してはシャクティと溶け合い、最終的には2人の呼気と、宇宙の大気を融合することで、肉体という物質的感覚は消滅し、2人は不二の存在として聖なる神の領域にまで到達する。
こうした修法は、独り単独で瞑想しながらシャクティの上昇を観想する場合と比較すると、格段のスピードで神との合一を実現できるという。
それはやはり自慰行為よりも本番のセックスの方が格別に素晴らしくて尊いということなのだろう。