政治コンテンツで稼げる時代の心得
現実の社会問題は複雑で、政策も同程度に複雑性が高まっているのだが、それを理解しようとする努力、伝えようとする努力をメディアは手放しつつある。政治家も面倒な政策や法律の説明よりも、それらを一言で伝えることばかりに注力しているようだ。
衆院選の国民民主党のキャッチコピー「手取りを増やす。」はその代表例だ。野党だけを責めることはできないが、多くの人たちが政治の現状と処方箋を理解できるよう誠意を尽くすべきだ。
メディアには早くも「103万円の壁撤廃」などという文言も並んだが、所得税の特定扶養控除額の引き上げはそもそも大学生や短大生などがいる世帯以外には無関係である。
単身者や小さな子どもしかいない世帯には関係しないのだが、そのことを注記して説明しているメディアがどれだけあっただろう。見方によっては学生と学生がいる世帯の優遇ともいえるだろう。きちんと所得税と社会保険料を理解しながら、「壁」の議論をしているのか首を傾げるときがある。
むろん政治家にも前述のような小選挙区のプレッシャーもあるだろう。現代の政治家が求めているのは好印象であり、その先にある自身や自党への支持だけのように見える。
政治家の動機づけと、有権者が潜在的に求めているはずの有権者目線での情報はしばしば衝突する。単純な時系列に基づくタイムラインから複雑で不可視なアルゴリズムが支配するプラットフォームの世界において、政治家本人や強力な支持者の主張を視聴したあとに有権者の目線で読み解く情報に出会えるだろうか。アルゴリズムがプッシュしてくるのは、類似の動画であり、認識を強化するコンテンツではないか。
本連載のようなエッセイの長所のひとつはデータに基づかない主観を開陳する機会に恵まれることである。近年、批判を嫌うような雰囲気がないだろうか。
筆者は以前、「偏りフォビア(恐怖症)」という言葉を使ったことがある。政治的に偏りたくないことから消極的な「中立」が「好まれている」という見立てだ。
政治、狭義でいえば選挙における中立志向は難しい課題を抱えている。選挙というのは端的に候補者や政党を選ぶ契機だからである。
棄権するような場合には当該有権者には意識されにくいだろうが、投票せずともその選挙を通じて当選者が信任され、その影響や呪縛は将来の立法や政策を通じて棄権者にも及ぶことになる。
現状に対する批判をとにかく忌避するとすれば、それは現状を肯定し、利することになる。想起されるのは「現実主義」の現状肯定性に対して批判的眼差しを向けた丸山眞男の有名なエッセイ「『現実主義』の陥穽」である。
マスメディアに対する不信感はどうもこの批判を忌避する最近の雰囲気と表裏一体ではないか。新聞にせよ、テレビにせよ報道の規範には批判精神がある。その対象は、権力、経済、社会まで多様だ。
ネットメディアは違う。当事者の発信ならなおさらだ。この違いを踏まえず、マスメディアの文法に沿って発信されるマスメディアのネットコンテンツが、ネット媒体特有の「無批判な快適さ」に慣れたユーザーに違和感を持って受け止められ、拒絶されているということはないだろうか。
政治と政治家に話を戻そう。
プラットフォームの世界では、政治のコンテンツも人気コンテンツのひとつである。今のところ再生回数が回れば収益につながる。他人に自身を撮影させたりすることを通じて、非支援者や政治に無関心の他者に収益を発生させることもできるのが最近のプラットフォームの傾向である。
このような環境は誰にとって有利だろうか。あなたが政治家だとすれば、その環境においてどんな発信をするだろうか。そのとき、誰が有権者の利益を本当に考えているのだろうか。
答えが一義に定まるものでもないだろう。
失われつつある批判的精神をどのように維持し、社会に理解を求めていけるだろうか。実効的批判をどのように維持、振興できるだろうか。
これまで報道やジャーナリズムが半ば無自覚にそれらを担ってきたこともあっていまさら言語化する機運にも乏しいが、報道やジャーナリズム「以前」を議論しなければならない時期が来ているのではないか。
ただネットで政治コンテンツを眺めるようなときにはぼんやりとそんなことを思い出してみてほしい。