「俺は安倍首相のときはもっと近くに行ったんだ。俺をだれだと思ってるんだ。朝日新聞の政治部の記者だぞ」

 この滑稽な男は当時、朝日新聞京都総局に実在した。ほんとうにいるんだ、吉本新喜劇の芝居に出てくる池乃メダカみたいな男が。

 ところがビデオカメラを向けると、この男は一転して「ものすごい丁寧な対応になった」という。どこまで新喜劇なのだ(「俺を誰様だと思ってる、朝日新聞の政治部の記者だぞ」 橋下市長が実名上げた記者はこんな発言したのか、J-CASTニュース、2013.07.22)。

 テレビや新聞などの「報道」に携わる者は、自分たちは「記者」であり「ジャーナリスト」だとの自負があるだろう。

 仕事は「取材」や「インタビュー」を通して、「ニュース」を作ることである。取材先は警察、検察、政治家であり、怖いものはない(暴力団は別)。

 なにしろ自分たちは「真実」を追究し、人々の「知る権利」や「言論の自由」を守る重要な仕事をしているのだから。世間からもそう評価されている。

 なかには特権意識が嵩じて無頼を気取るものや、どんな非常識も許されると勘違いしているものも出てくる。

メディアの新旧の問題ではない

 テレビは、もうあたりまえのように、「このあと最新のニュースをお伝えします」という。新聞社は当然のごとく毎日、新聞を発行している。

 だが、だれが頼んだわけでもないのである。報道機関は「勝手に報道する自由」でやっているだけである。

 江戸時代の瓦版とおなじで、「てやんでぇ、てやんでぇ、事件だよ」と勝手にやっているだけだ。火事や事件や事故があれば、現場に駆け付ける。他社に負けないように。

 そこで「取材」とやらをする。しかし実際にやっていることは、火事場や事件・事故現場に集まるただの「野次馬」や「覗き見」と変わらない(そして、それを見るわたしたち視聴者も「野次馬」や「覗き見」になる)。

「記者」だ、「報道」だ、「言論の自由」だという。しかし、そんな立派なお題目を取っ払ってみれば、「記者」といっても、もしくは「デスク」や「ディレクター」といっても、欲も見栄も人一倍ある、ただの男であり女にすぎない。

 だから、問題は「オールドメディア」か「ニューメディア」かの問題ではない。どちらも玉石混交で、欲や見栄が動機である点ではおなじである。