「競争は敗者のもの」

 1940年から2000年までは――ロックンロールや性革命があった時代を経て――米国人の70%ほどはどこかの教会に属しており、その割合は薄気味悪いほど安定していた。

 ところが2000年代に入るとその割合が低下し始め、今では50%を割り込んでいる。

 50対50の分断は、この世俗化のトレンドを追いかけるように姿を現し、あたかも政党が新しい「会衆」であるかのようだ。

 もっとも、この説も、エビデンスは単なる相関関係だ。それに、この説の壮大さでは「オッカムの剃刀」による審査を通過できない。とどのつまり、米国の分断は今世紀のミステリーの一つだ。

 ある程度の確信を持って言えるのは、この分断のせいで一つの超大国が、そしてあのかつての超大国が不安定になったということだけだ。

 テクノロジー業界で財をなしたピーター・ティール氏はかつて「競争は敗者のものだ」と言ったことがある。これはもっと長くてニュアンスに富んだ議論を、独特なスタイルの挑発にまとめた言葉だ。

 その議論の中身はこうだった。

 ある企業が市場で支配的な地位を得ていたら、それは通常を上回る利益が得られるという意味でその企業にとって良いことであるばかりか、社会全体にとっても良いことだ。

 物事を前進させる大がかりな研究に予算をかけられるのは独占企業と寡占企業だけだからだ。

 もし米国が世界のテクノロジーのリーダーになったのであれば、それは何千何万という企業がしのぎを削る騒々しい競争市場だけを通じてそうなったわけではなかった。

 集中と巨大さに負う部分が大きかった――。