西側の安定化は支配的な政党の物語
同様なことが政治にも言えるのではないかと筆者は考えている。社会というものは、1つの政党が独占とまではいかなくとも覇権を握っている時が最も健全なのではないか、という気がする。
1945年以降の西側の安定化は支配的な政党の物語だった。
英国の保守党、ドイツのキリスト教民主同盟・社会同盟(CDU・CSU)、フランスの右派などがその例で、20世紀後半の大部分で連邦議会を牛耳っていた米国の民主党もある程度そうだった。
支配的な力を持つ政党には寛大になる余裕があり、そのライバルに当たる政党には支持基盤の外にアピールするよう促す力が働いた。
中道から離れすぎた者は、かつてバリー・ゴールドウォーターが大統領選挙で喫したような大敗をくらった。
対等な者同士の競争は、理屈の上では美しい。だが実際はどうだろう。読者はここ20年間を、どの程度啓発的で好ましかったと考えるだろうか。
そう、民主党はハリス氏よりも弁の立つ人物(ギャビン・ニューサム・カリフォルニア州知事)を候補者に指名することもできた。
激戦州の政治家(グレッチェン・ホイットマー・ミシガン州知事)や明らかな中道派(ピート・ブティジェッジ運輸長官)を選ぶこともできた。
だが、昨今のパターンを見る限り、誰を選んだとしても、やはり米国は誰が勝つのかはっきり分からないまま11月5日の投票日を迎えることになっただろう。
選挙後の平穏のオッズも50対50か
20世紀の終わりには、米国の選挙の接戦は目新しくて楽しいものだった。パンチカード式の投票用紙に穴を開けた時に出る丸い屑について冗談を言う人もいた。
それから20年あまりが経過し、今では「50対50」という表現は、選挙後に市民が平和に暮らせるか否かのオッズのように聞こえる。