その言葉に背中を押され、ようやく一軍の舞台に立つことができたのはその年の10月、いわゆる消化試合の9回の守備だった。ものすごく緊張して、地面を何度踏んでもフワフワするような感覚を生まれてはじめて経験した。

 それから7年、現役最後のゲームもあの日と同じ匂いがする、肌寒い秋の消化試合だった。実は、ここで改めて内藤さんのことを書かせてもらおうと思ったのは、最近になって、その最後のゲームのことを思い出す機会があったからだ。

 引退を決意していた1990年のシーズン最終戦、横浜スタジアムでの大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)戦だった。敗色濃厚の最終回、ピッチャーに打順が回るところで代打の声がかかった。

 引退を決めていることは監督にも伝えていなかったので、指名は本当にたまたまだったのだと思う。

 ワンアウト1塁、打席にはプロ1年目の古田敦也という場面、ネクストバッターズサークルに立っている間も、感傷的になるようなことはなかった。あれほど憧れたプロ野球の世界だったのに、よほど場違いだったのか、2年目には体に変調をきたし、症状とどう付き合っていくか、そればかりを考えさせられる日々が続いた。

 いつしか、これ以上続けていたら、大好きな野球のことを嫌いになって
しまうのではないか、という恐怖が心を支配するようになっていた。でも、あんなに下手くそだった自分が、内藤さんのおかげでここまでやらせてもらった。

「最後は思い切ってバットを振ろう」

 そう思っていたら、次の瞬間、ショートにゴロが転がって、ダブルプレーで試合終了。現役生活はそこであっけなく幕を閉じた。そう、ネクストバッターズサークルですべては終わったのだ。

 あの日、ある意味、不完全燃焼な終わり方になってしまったことは、その後の人生にかけるモチベーションを上げてくれるきっかけにもなった。

 プロの世界では最後まで半人前で、本当にダメな選手だったから、次の仕事では、せめて一人前と認めてもらえるように頑張ろう。そのときは、まだ次に何をするかも決まっていなかったのに、ただ「ちゃんとやらなきゃ」という思いだけはすごく強かったことをよく覚えている。

 さて、そのシーンのことを、最近になってどうして突然思い出したのか。察しのいい方なら、もうお気付きかもしれない。

 2018年クライマックスシリーズのファーストステージ第3戦、清宮幸太郎の1年目がネクストバッターズサークルで終わったことの意味を考えていたとき、ふとそのシーンがよみがえったのだ。

 あの場所でゲームセットが告げられた瞬間、彼はどんな景色を目に焼き付け、どんな思いを胸に刻んだのだろうか。ドームの中は寒くはなかったけれど、一歩外に出ればやはり秋の匂いが漂うあの季節は、いろいろな思いが重なり合う。

「ひとと比べるな」

 内藤さんの声をどこかで聞きながら、当時の自分とはあまりにも対照的な、才能あふれる若者の将来を思った。

 内藤さんが亡くなられて5年以上が経つが(編集部注:執筆当時)、最近はいつもそばにいてくれているような不思議な感じもしている。

 選手との距離感がうまくつかめないときなど、現役時代、本当に愛してもらったことを思い出す。内藤さんは、心が折れそうになっている自分を、本当の意味で本気にさせてくれた。

 ほとんど怒鳴られた記憶はなく、いつも優しい人だったけれど、それでもあんなに本気になれた自分がいた。結局、それが選手が一番伸びることなのだと思う。

 それを自分らしくやるにはどうすればいいのか、自分らしさっていったい何なのだろうと考えてみたら、それはあの頃、内藤さんにしてもらったことなのだと改めて気付かされた。プロの世界に入って最初に向き合ってくれた人だったので、その価値観みたいなものが無意識のうちに自分にも染み付いているのだと思う。

(『監督の財産』収録「6 稚心を去る」より。執筆は2018年10月)

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