興福寺側が訴えていた、当麻為頼による「殺害事件」

 キーパーソンの一人が、道長に仕えていた源頼親(みなもとのよりちか)である。頼親は京内外の盗賊の捜索や犯人逮捕で活躍。藤原伊周(これちか)が花山院に矢を射かけるという「長徳の変」においても、道長の武力として登用されている。

 道長の信頼を勝ち取った頼親は、数度にわたって大和守に任命されている。大和国に勢力を伸ばす中で、頼親の配下である当麻為頼(たいまのためより)が、所領をめぐって興福寺と紛争をたびたび起こすようになった。

 道長が著した日記『御堂関白記』〈寛弘3(1006)年6月14日分〉によると、「興福寺領である池辺園の管理者が、当麻為頼により殺害された」という興福寺からの訴えを受けて、道長が頼親に真相を確かめたところ、「興福寺から3000人ほどの僧たちが、為頼の館に押し寄せて家を焼いた上に、田畑を踏み荒らすなどの暴挙に出た」のだという。

 そんな事件のあらましを踏まえれば、ドラマでの道長と興福寺の別当・定澄とのやりとりもよく理解できるはずだ。道長が「興福寺が乱暴の限りを尽くしておることは、大和守の訴状で承知しておったが、これほどの暴挙は許し難い」と言うと、定澄はこう反論している。

「乱暴を働いているのは、興福寺ではなく、大和守・源頼親と右馬充・当麻為頼でありまする。彼らを訴える解文を朝廷に奉っておりますのに、なにゆえご審議くださいませぬのでございましょうか」