もう一つ、フルヒナ―被告と「牛タン」が重なり合う気がするのは、訴追された彼女が取った行動が今後、兵庫県の「牛タン」を筆頭に、この種の問題で「公務に従っただけ」と主張するような被告人たちが示しそうな、典型的な行動になっているからです。

 2021年2月、彼女が「元・強制収容所長秘書」と判明し、検察当局から起訴を告げられると、すでに95歳になっていた被告は当初、「こんな裁判にかけられるとは屈辱的だ」として起訴自体を受け入れず、裁判をボイコットする姿勢に出ました。

 なんかありそうですね、「もと何々」という県の高官だった人が「失礼だ!」とかいって法廷に出てこなさそうな空気。

 フルヒナー被告は戦後、元ナチス下級将校だった夫と結婚し、1972年に死別してからは寡婦として、北ドイツエリアで事務員として普通に働いてきました。

 戦後でいえば昭和20年代に結婚し、高度成長期を主婦として家庭を守り、昭和47年に夫が亡くなり・・・。

 私の父とフルヒナ―被告は同い年で父も同じ年にガン死していますので、等身大で分かる気がします。

 その後50年、90代中盤に至るまで普通に市民として戦後の80年間を過ごしてきたのだから、「失礼な!」などと言うのも、分からない話ではありません。

 しかし、欧州のナチス裁判はそこまで甘くはなかった。

 2021年9月、初公判への出廷数時間前になってフルヒナ―被告は、なんと入居している高齢者施設から至近の地下鉄駅まで、タクシーに乗って「逃亡」を図ってしまいます。

 被告人が姿をくらましたことを把握した当局は直ちに手配、フルヒナ―被告は駅あたりでうろうろしているところを、あっけなく確保され「逮捕」され、96歳ながら5日間の拘留となりました。

 結果、足にGPSをはめ、居所を常に当局が把握することを条件として釈放され、初公判は10月19日に延期されます。

 こういうことをやるケースも、なんというか、日本でもありそうな気がしますが、日本の司直がGPS付き保釈という措置を講じるかは、やや違うような気がします。

 なぜなら、日本の世論は「高齢者に優しく」、ドイツの世論は「元ナチスに厳格」、完全に対照的だからです。

 2011年、かつてナチスの収容所の看守だったことが証明され殺人幇助が成立するとの判例が出て以降、戦後ずっと過去を隠し続けてきた80代、90代の元看守らが訴追され、容赦なく有罪判決がでいます。

 ここで問題になるのは、過去を隠してきたこと、悪かったことを自分で悪いと認めなかった点です。

 ここに書くのもなんですが、職員2人を死に追いやっても「妥当な判断だった」と強弁する例がどこかにありますね?

 こういうものをドイツの司法は決して許さないということです。しかも、時効なしで。

 さて、最終的に、気が弱くなってきたのでしょう、結審にあたって被告は「収容所での出来事すべてについて申し訳なく思います。当時シュトゥットホーフにいたことは後悔しています。ほかに言うことはありません」と述べ、陳述を終えています。

 兵庫のケースも、仮に刑事司法に問われたら、いったいどのような陳述があるでしょうか。

 さて、この「ドイツの牛タン」元公務員秘書の老婦人の場合、ドイツ連邦裁判所が下したのは、一人ひとりの犠牲者のケースを正確に調査したうえで、2022年12月20日、確実に関係したと判断される1万505人の殺人と5人の殺人未遂の罪で、禁固2年執行猶予2年の有罪判決でした。

 被告は連邦裁(最高裁)に上告しましたが、今回この判決が支持されましたので、現在99歳のフルヒナ―被告は、生きていれば101歳まで執行猶予。

 しかし、この間に本人に不測のことがあって刑が執行されれば禁固2年。その場合、高齢でいつ亡くなるか分からないわけで、獄死の可能性もある厳しい判決を受けたと言えます。

 いま、戦後80年を経ようというとき、日本で「戦時中の不法行為」を巡って、100歳目前の高齢者が法廷に召喚され、有罪判決が下りる状況を想起できるでしょうか?

 ドイツでは、いや全欧州では、それが正義として今現在受け入れられる。それくらいに「人類の存続が危ぶまれた犯罪」に対して、欧州の倫理は徹底している。

 そのことを、島国・日本の世論は等身大で受け入れることができるでしょうか?