ちなみにダンチヒ奪還を巡る諸々は、「ダンチヒ自由都市」出身の小説家ギュンター・グラスの小説「ブリキの太鼓」などの「3部作」にも描かれており、広く知られると思います。

 さらに、戦後はポーランドに併合されグダニスクとして知られますが、冷戦末期ポーランド革命の端緒となったのもレフ・ワレサ書記長に率いられた「独立自主管理労働組合『連帯』」のストライキが端緒となった。

 「ダンチヒ=グダニスク」は、そのような火種となりやすい民族の潮目になっていた。

 グダニスク奪還の1939年9月2日に、戦争捕虜収容のために創建された「シュトゥットホーフ収容所」は41年6月22日「バルバロッサ」電撃作戦で火ぶたを切った「独ソ戦」以降、ソ連領から移送される戦争捕虜やユダヤ人を収容する新たなニーズが発生。

 1942年2月20日には正式に国営強制収容所に指定され、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアなどからスラブ系、ユダヤ系を問わず大量の人数が連行されました。

 当初、シュトゥットホーフはアウシュヴィッツなど絶滅収容所へ一種の「中継収容所」と機能しましたが、間に合わなくなってくると1944年夏以降はガス室や焼却炉が稼働し始め、絶滅収容所の役割も果たすようになります。

 この時期、1942~45年にかけてシュトゥットホーフの所長だったナチスSS大佐パウル・ヴェルナー・ポッぺの秘書を務めていたのが、当時は18歳だった旧姓イルムガルト・ディルクセン、現在のフルヒナ―被告だったわけです。