(歴史ライター:西股 総生)
怖いほど戦闘的な構造をもった要塞
松江城天守は、なぜ左右ほぼ対称にデザインされたのだろうか? 現地を歩きながらいろいろ考えてみたのだが、縄張との関係で天守のデザインが決定された、というのが筆者の見立てである。どういうことか。
まず、本丸の虎口と天守との位置関係のため、正面から本丸に入ると、必然的に天守を斜めの角度で見ることになる。また、本丸は南北に長い形をしていて、天守がその奥まった位置にある上に、本丸・二ノ丸とも正面側の石垣が高い。このため、大手口から入ると、天守を斜めの角度から眺めながら本丸へ導かれることになる。
姫路城のように天守を正面から見る形になるのなら、はっきりとアシンメトリーのデザインを指向するのだろうが、斜めの角度から見るのが基本なら、あえてシンメトリーデザインでまとめた方が、逆にアシンメトリーの美を感じられる、という判断ではあるまいか。いずれにせよ、このようなセンスのよい天守があったからこそ、不昧公のような傑物が育まれたのではないか、などと思ってしまう。
一方で、この天守は、怖いほど戦闘的な構造をもった一個の要塞でもある。全体のデザインがよくまとまっているので、パッと見には気付きにくいが、よく見ると、壁一面に無数の狭間が並んでいる(実際、ほとんどの観光客は気付いていない)。
室内側から見るとわかるが、この狭間はコンクリ天守の作り物の狭間とは違って、一つ一つ角度がついていて、鉄炮を構えたときにちゃんと狙いが決まるようになっている。もちろん、膝撃ちの姿勢をとったときに、ドンピシャの高さに配されている。天守内部を見学するとき、ぜひ確認してみよう。
この狭間には、蓋がしてある。実際に戦闘態勢に入るときは、窓の突き上げ戸とともにバタバタッと開くのだろう。情景を想像すると19世紀の戦列艦みたいで、城の本質が軍事施設であることを再認識させられる。
もっとも戦慄すべきは、天守の入口に設けられた付櫓だ。天守へは付櫓を通らなければ入れないのだが、天守本体との間が鉄張りの分厚い扉で遮断できるようになっている。おまけに、天守の内部から付櫓に向かって、狭間がいくつも切ってあるのだ。付櫓に侵入した敵を、天守からの射撃で殲滅するための装備で、原理としては枡形虎口と同じだ。
このあたりの戦闘的な造りは、さすが堀尾プロデュースの天守である。寄らば斬るといわんばかりの戦闘的な機能を、茶器のような「わびた」デザインに包み込んでしまうところが、乱世を生き抜いてきた武将たちの美意識なのである。甲冑などと同じで、武将が生死の狭間に命を託すものだからこそ、天守は美しくあらねばならないのだ。
つい天守の話が長くなってしまったが、ほかにも見どころは多い。たとえば縄張を見ると、枡形虎口を多用して、通路をしつこく折り曲げているのがわかる。まだ戦争がリアリティを持っていた時代の設計なのである。
石垣も、随所に堀尾時代の積み方を残していて貴重だ。よく見ると、本丸・二ノ丸の正面側(南側)に比べて、裏側(北側)の石垣は無理に高く積んでいないし、石も小ぶりだ。目立たないところはコスパ重視で施工していわけで、これもある意味リアルだ。
城の魅力がひととおり揃った、プレートランチみたいな松江城。見どころは満載だから、ビギナーはビギナーなり、マニアはマニアなりにじっくり味わってみてはいかがだろう。