「民主主義は最悪の政治形態」

 イギリスの元首相、チャーチルはこんな言葉を遺しています。「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」。今の日本は、まさにチャーチルが述べたような状態の真っただ中にあります。

英元首相チャーチル(左)と「喜劇王」チャップリンのツーショット。1929年(T. Garrett (+1935\), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
拡大画像表示

 自民党には与党の座を下りてほしいけど、信頼できる政党がほかにない。だからといって民主主義を捨て去って中国やロシアのような強権国家に変わりたいわけでもない――。いうなれば、民主主義の限界が見えてきている袋小路のような状況にあります。

 政党のお金の使い方については、今回の自民党の裏金問題を受けて実施される予定の政治資金規正法の改正によって、どんどんガラス張りになるでしょう。政治にかかるお金の流れが透明化していくのは一見とてもいいことなのですが、一方で過去には物事を前に進めるため、野党対策などにお金を使うという実態もありました。お金は人間社会を動かすための潤滑油にもなります。今後、政治資金の使途がどんどん透明化されていくのはもちろんいいことなのですが、人間社会的に見ると、潤滑油がなくなり、社会の動きがぎくしゃくする面、つまり正論と正論の対決の中で物事が動かない、ということも頻発してくる可能性があります。

 しかしだからといって国民が「じゃあ、少しは不透明なお金の流れにも目をつぶろう。世の中、理屈だけで動くものでもない」などとは思わないでしょう。正確には、これまでの日本人には、そうした良く言えば懐の深さ、悪く言えば、不透明な部分を飲み込む“ゆとりのようなもの”がありましたが、近代合理主義・客観主義に凝り固まりつつある現代日本人には、この理屈は通用しなくなっています。

 小学校のクラスを見ても明らかですが、全く透明化された状況の中で、正論しか吐くことができなくなった完全無欠なる“学級委員という存在”(一般社会における政治家のアナロジー)が必要だとして、誰がその人になりたいと思うでしょうか。また、そういう人が本当に、クラスの皆の気持ちを代弁してくれるような人、平たく言えば、人気がある人として存在しうるでしょうか。ちょっと変わった人、というレッテルを貼られ、敬して遠ざけられるのが関の山で、実際、現代民主主義社会における政治家は、そうした様々な意味で人気のない、なり手のない職業に成り下がりつつあります。