20年の治世で4000人以上の文官を生み出した「科挙制度」

 一方のまひろは、宋人たちにもてなされながら、その文化の違いを興味津々に楽しんでいる様子が見て取れた。

 それもそのはず、まひろはかねてから中国に興味を持っていた。弟の惟規(のぶのり)から「大学で新楽府(しんがくふ)が流行っている」と聞けば「読みたい」とせがみ、借りて来てもらい、せっせと写している。『新楽府』とは、唐の白居易(はくきょい)らが「楽府」という形式の漢詩を用いて、当時の政治・社会を比喩したものだ。

 さらにさかのぼれば、九州から京都に帰ってきたばかりの藤原宣孝(のぶたか)から、中国(宋)の科挙(かきょ)の制度について聞くと、感激したこともある。宣孝はまひろの父・為時(ためとき)の親戚であり、かつ元同僚だ。まひろとも気心知れた仲だったから、ちょっとした雑談のつもりだったのだろう。

 だが、まひろは大胆にも一条天皇に直々にこんなふうに熱弁している。

「低い身分の人でも官職を得て、まつりごとに加われる。 全ての人が身分の壁を越せる機会がある国は素晴らしいと存じます」

 科挙といえば、隋の時代から始まった官吏登用試験のことだ。家柄に関係なく受験が可能な能力重視の試験とされながらも、当初はまだ貴族の力が大きく、身分の低い者が取り立てられるのは限定的だった。

 そんな中、宋を建国した太祖が、中国統一の目前で急死すると、弟の太宗が内政を固めていき、科挙も大きく発展した。科挙の合格者はうなぎ上りに増えて、20年の治世において、4000人以上の文官を生み出している。

 まひろが憧れた「賢才が登用される科挙制度」は、実質的には宋からだと言えるだろう。宋人との交流が今後、まひろの創作にどんな影響を与えるのかも要注目である。

紫式部と国府資料館 紫ゆかりの館(写真:PIXTA)