「人権意識」は低く、「個人情報」という言葉もBPOもなかった

 1990年代に「Windows 95」が誕生し、パソコンが一般家庭にも普及。「Yahoo!」や「Google」などの検索サイトの登場で、インターネットが広まっていった。2000年代にはテレビも「地デジ化」などデジタル化が進められ、インターネットとテレビ放送が様々な形で絡み合う形となる。ネット以前のテレビについて、筆者は以下のように語っている。

放送は終戦直後に掲げられた放送法の「理想」に向かって70年かけて現在の形を作った。一方で近年、「テレビがつまらなくなった」という言葉を聞く。そこには「昔のテレビは面白かった」というノスタルジーもある。しかし、実際のところ、昔のテレビが面白く感じられたのは、「無秩序」「混迷」「送りっ放しで無責任」という揺籃期から成長期に向かうテレビの無邪気さ、幼さにその理由のひとつがあったと思う。その頃のテレビは「人権意識」も低く、「個人情報」といった言葉も、BPO(放送倫理・番組向上機構)もなかったのだから。

 若者がテレビから離れ、インターネットの時代になった今、ネット上の「炎上騒動」はあとを絶たない。筆者の語る「昔のテレビが面白かった理由」は現在のYouTubeやSNSなどの人気にも同様の理由が当てはまるかもしれない。

 それでも筆者はインターネットの時代でもテレビ放送にしかない価値があるという。例えば「報道」において、個人が発信できるネットの時代にあっても、テレビ報道は組織的で継続的なプロのジャーナリスト集団が担っているとして評価する。

ユーチューブやツイッターが動画共有の「広場」であっても、それはジャーナリズムの「場」ではない。いまやネット上の老舗コンテンツ・アグリゲーターとなった「ヤフー!」でさえ、その仕事の殆どはマスメディアからニュースを買い集め、サイトに載せることだ。昨今、独自取材も増えたと聞くが、サイト記事の殆どは伝統的な報道機関が足で稼いだネタだ。

 有事の際にネット回線が途切れてもテレビは途切れないように、地方局の設備管理は徹底されているという。テレビは地域の絶対的なライフラインだからだ。これもテレビの強みと言えるだろう。

 しかし現実は厳しい。問題はテレビ局、特に地方局の経営にある。