オペラ歌手をめざしての貧乏暮らし
明治40年、淡谷のり子は青森市内の呉服商「大五」阿波屋の長女として生を受けます。
裕福な家庭でしたが、3歳時の青森大火によって店は没落、父親の放蕩癖もあり、やがて破産。15歳の頃、母と妹の三人で上京し、中目黒近くの小さな借家で暮らし始めます。
淡谷は母親とともに生活費を稼ぎますが、目を患っていた妹の治療代、加えて着飾ることが大好きな淡谷の浪費などで、貧困生活は歌手デビューする23歳頃まで続きます。
上京するまでは作家や女性記者を夢みていた淡谷ですが、上京後はクラシックの歌手をめざし、東洋音楽学校に入学(現・東京音楽大学。後輩に霧島昇、菅原都々子、黒柳徹子などがいます)。
オペラ歌手をめざしてはいましたが、家族三人の生活費に加え、妹の治療費もかさむことから音楽学校を休学、前述したように時給の高いヌードモデルで糊口をしのぎます。
淡谷は休学を挟みながら、16歳から5年間にわたり、霧島のぶ子、通称「のぶちゃん」として人気モデルの顔を併せ持っていました。当時のモデルの同僚に、女優の原泉がいたそうです。
10年に一人のソプラノ
やがて復学した淡谷は、恩師・久保田稲子の厳しいマンツーマン指導によりファルセット(裏声)による歌唱法を会得、21歳のとき声楽科を主席で卒業すると、読売新聞社主催の「オール日本新人演奏会」で「アガーテのアリア」(「魔弾の射手」より)を歌い「10年に一人のソプラノ」と激賞されます。
後年、歌謡界のご意見番となった淡谷が若手の歌手に対して口を酸っぱくして言っていたのが、「基礎の大切さ」でした。
これは、前記の久保田稲子からの「音程は正確すぎるほど正確に」「歌詞は詩を朗読するよう意味を把握し明瞭に」という指導を全うするための基礎練習の大切さを、身に染みて理解していたからでした。
卒業時に久保田からかけられた言葉──あなたは歌と一緒に死んでいくのよ──は、淡谷にとってかけがえのないものでしたが、恩師のいう「歌」とは、当然のごとくオペラのことでした。