クラシックから流行歌手の世界へ
音楽学校卒業後、クラシック畑で活躍したかった淡谷ですが、クラシックだけの仕事だけでは、淡谷が望むような暮らしは成り立たず、断腸の思いで、当時低俗とされていた流行歌の世界へ飛び込みます。
昭和5年(1930)、キングレコードから『久慈浜音頭』でデビュー、日を置かずレコード会社を変えながらマドロス物など数多くの曲を吹き込みますが、翌6年、日本コロムビアに移籍すると、映画音楽などの外国曲の吹き込みが多くなっていきます。
ただし、日本コロムビア移籍後、最初にヒットしたのは、昭和6年9月発売の『私此頃(このごろ)憂鬱よ』という古賀メロディーの曲でした。
A面は藤山一郎『酒は涙か溜息か』(両面とも、詞・高橋掬太郎、曲・古賀政男)で、両面ともヒットしたのですが、4歳年下で、のちに「ピンちゃん」と呼んで弟扱いしていた藤山の曲がA面だったのが気にさわったのか、淡谷はこのヒット曲を公演の際のレパートリーには加えなかったそうです。
『私此頃憂鬱よ』が発売された同時期の昭和6年9月、ジャズ・ピアニストの和田肇と結婚。淡谷には恋心とは別に、和田とともにジャズを深めたいという気持ちがありました。しかし、妻としての仕事を望んでいた和田との生活は長く続かず、昭和10年には結婚を解消しています。
死地への旅立ちは『別れのブルース』で
古賀メロディーのあとはシャンソンや映画音楽など外国曲を中心にレコード化されていきますが、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件が勃発するひと月ほど前の昭和12年6月、淡谷の代表曲となる『別れのブルース』が発売されます。
『別れのブルース』の歌詞は、服部良一が短調で抒情的な曲を創作したのちに、詩人・藤浦洸に当時の五円札を渡し、「本牧の夜をブルースの歌にしてほしい」と依頼したもので、夜を共にした(かもしれない)女性が、「窓を開ければ港が見えるのよ」と口にした言葉を曲の冒頭に取り入れたものでした。
当初は『本牧ブルース』という題名だったのですが、歌詞に登場する「メリケン波止場」が神戸にも存在することから『別れのブルース』に変更されます。
短調で切々と歌われるこの曲は、特に満州や上海などの大陸に駐屯している軍人・兵隊たちに人気がありました。
戦意高揚のための勇ましい歌よりも、「今日の出船はどこへ行く」といった「別れ」を表わす歌詞などに望郷への念を募らせていたのでしょう。淡谷の静かな歌声が前線にいる兵士たちの心にずしりと響いたことは間違いありません。
しかし、それから数年後、戦局の悪化により『別れのブルース』は発売禁止となります。
『別れのブルース』が発売された翌13年、第2弾のブルースとなる『雨のブルース』が誕生します。創作の際、服部が作詞を依頼したのがジャズ評論家の野川香文、別名・大井蛇津郎(おーいジャズろう)でした。
冒頭「雨よ降れ降れ 悩みを流すまで」で始まる歌詞は、黒人ブルースに精通していた野川が日中戦争拡大という背景を意識し、世の人々の切なさをメロディーに乗せたもので、単なる失恋ソングではありませんでした。
老若男女、国内外に知られた淡谷の歌声は、朝ドラでも描かれたように基地にいる特攻隊員たちの前でも披露されましたが、淡谷の歌唱中に特攻命令が下され、自分の子供ほどの年若き隊員たちが退場して行く姿を見たとき、淡谷の目からはとめどなくあふれるものがありました。
(参考文献)
『別れのブルース』(吉武輝子著、小学館)
『ブルースのこころ』(淡谷のり子著、ほるぷ)
『一に愛嬌二に気転』(淡谷のり子著、ごま書房)
(編集協力:春燈社 小西眞由美)