遺骨の調査を行なった人類学者の鈴木尚は、その著書に「和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ不思議にも左手首から先の手骨は遂に発見されなかった」(『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会)と記している。
また、和宮が箱根で暴漢に遭い、そこで自害したという趣旨の投書が調査団にあり、その時、左手首を切り落とされたという説もある。さらに、和宮の肖像画に左手が描かれていない、和宮の彫像が手を隠したようなデザインになっていることなどもあり、和宮は生まれつき左手がなかったか、何らかの理由で左手首を欠損していたのではないかとの推測がなされるようになったのではないだろうか。
家茂への愛を貫いた和宮
和宮と家茂の結婚は、幕末の悲劇を象徴する政略結婚とされるが、その政治的な思惑とは別に、二人の仲は睦まじかったという。
実際に、二人の関係を象徴するエピソードがいくつも残されている。
――和宮は、家茂の最後の上洛の際、御土産に西陣織を望んだが、家茂は大阪で死去し、その織物だけが和宮の手元に届いた。『大奥』にも描かれているように、和宮は織物を抱き、泣き伏したという。さらに家茂を想い、つぎの歌を詠んだとされる。「空蟬の唐織ごろも何かせむ 綾もにしきも君ありてこそ」。のちに和宮はこの織物を増上寺におさめ、家茂の供養のために袈裟に仕立てられたとされ、「空蟬の袈裟」とも呼ばれた(*1)。
(P74-75 野本禎司「政略結婚を超えて。書簡を交わし合った家茂と和宮」より)
(*1)永島今四郎・太田贇雄編『新装版 定本江戸城大奥』(新人物往来社)
さらに、『大奥』では、家茂上洛の際に和宮がお百度詣を行うシーンが描かれるが、これも史実として記録されている(*2)ほか、二人が交わした書簡には、家茂が和宮の頭にできた「おでき」を心配したり、和宮が家茂からの贈り物を雛の節句の際に飾ったなど仲睦まじいやり取りが残されている(*3)。
(*2)「静寛院宮御側日記」(宮内庁書陵部所蔵、日本史籍協会編『静寛院宮御日記』一・二[東京大学出版会]所収)。なお、『大奥』では最後の上洛の際に行なっている。
(*3)個人蔵(德川宗家文書)。德川記念財団編『徳川家茂とその時代――若き将軍の生涯』(德川記念財団)所収
家茂の没後、和宮は出家し、「静寛院」と称した。やがて訪れる幕府崩壊の危機に際しては、当初こそ対立した天璋院(13代将軍の正室)とともに立ち向かい、徳川家存続に尽力した。江戸城開城後は京都に戻ったが、再び東京に戻り、31歳の若さで死去した。
和宮は「家茂の側に葬ってほしい」という遺言を残しており、家茂の隣に葬られている。