「禁門の変」の舞台となった京都御所の蛤御門。

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(11)「徳川慶喜①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65801
渋沢栄一と時代を生きた人々(12)「徳川慶喜②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65802

慶喜の復権と文久の改革

 安政7年(1860、3月18日に万延に改元) 3月3日、桜田門外の変が勃発し、大老井伊直弼は水戸浪士などによって暗殺された。安政の大獄で失脚を余儀なくされていた勢力は、徐々に復権を果たすことになるが、徳川慶喜も例外ではなかった。万延元年9月4日に慎解除、文久2年(1862)4月25日に他人面会・文書往復の禁解除となり、5月7日に将軍家茂に謁見した。そして、7月6日に至り、慶喜は再び一橋家を継いで将軍後見職に補任されたのだ。

 慶喜はここに復権を果たすばかりでなく、幕政に参画することになったが、その背景には、島津斉彬の没後、藩主となった忠義の実父であり、薩摩藩の実権を掌握した国父と称された島津久光の率兵上京があった。久光は文久2年4月16日に千人の兵を率いて上京を果たし、勅使下向による幕政(人事)改革を朝廷権威によって実現するために、自らも兵を率いて江戸に乗り込んだ。

原田直次郎筆「島津久光像」尚古集成館蔵

 久光は慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職に就けるべく圧力をかけたが、幕府はそれに屈する形で受諾した。慶喜と久光の腐れ縁はこうして始まったのだ。慶喜は政治総裁職に補任した春嶽とともに、文久の改革を実施し、参勤交代の緩和(3年に1度に改め江戸在留期間100日。大名妻子の帰国許可)、幕府陸軍の設置、西洋式兵制の導入など軍制改革などを実現した。慶喜と春嶽の、将軍継嗣問題から続くもう一つの腐れ縁も復活したことになる。