(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
大和郡山城と因縁のある福山城
11月22日掲載の大和郡山城の記事からわかるように、城という構築物には、築いた武将の立場やキャラがしばしば色濃く反映される。今回紹介する福山城も、その典型。しかも、福山城と大和郡山城の間には意外な因縁がある。
福山城を築いたのは、水野勝成という徳川譜代の武将だ。勝成が三河水野氏の一族として生をうけたのは、1564年(永禄7)という。家康(当時は松平信康)が桶狭間の合戦の後、一向一揆を鎮圧したりと三河統一に向けて苦闘していた頃だ。
やがて成長した勝成は、徳川家中の若武者として戦場で暴れ回るのだが、少々ヤンチャの度が過ぎた。小牧・長久手合戦の際に、陣中で父の忠重と大喧嘩をして出奔、浪人として豊臣方の諸将に仕えたものの、次々とトラブルを起こして各地を放浪。あまりの行状に、秀吉からお尋ね者扱いされる始末であった。
秀吉の死後、ようやく許されて家康に出仕すると水野家を正式に継ぎ、関ヶ原合戦や大坂の陣で大活躍。6万石をもって大和郡山城主となる。そして、4年後の1619年(元和5)に10万石に加増されて備後に転封となったのだ。
この転封は、広島の福島正則改易に伴う大名の再配置によるものだ。早い話、西国で変事が起きた場合、ファーストディフェンダー(ないしは斬り込み隊長)となるのが勝成の立ち位置である。幕府は、武闘派キャラを見込んで勝成を備後に封じたのだ。しかも、勝成は放浪時代に備後にいたことがあるから、土地鑑もある。
そんな事情で築かれたのだから、福山城はバリバリの武闘派城郭だ。10万石という石高ゆえ城域こそコンパクトにまとめられているものの、そのぶん縄張に凝縮感というか、高密度感がある。石垣も高く堅固に積み上げられていて、見事。
明治以降、三ノ丸が市街地化して山陽本線や新幹線の駅ができたので、現在残っているのは本丸とその周辺のみだが、城としての見ごたえは充分だ。しかも、結果的に駅から近い。というか、駅を出たら目の前に立派な石垣がそびえている。