日本の若者が会話している場で意図的に「ツッコミ」をする、その役を演じることで場を盛り上げる作法はごく一般的なものだろう。それに対して、中国にはもともと「ツッコミ」という概念はなく、似たようなものが漫才にあっても一般的なコミュニケーション作法として浸透していなかった。つまり、中国の若者たちにとって「ツッコミ」はまったく新しいコミュニケーション作法であり、他の人とつながり、対象や世界を見るための新たな視点を提供するものだったのである。
政治的な意図がなくても政治的な意味合いを持つことがある
弾幕と「ツッコミ」は反抗、もしくは抵抗するためのツールとして機能する。それは作品全体をばらばらに解体して、いろいろな関係ない文脈へとつなぎ、ありえない組み合わせや対話を実現させてしまう。このように見ると、すべての価値を一つに「合流」させようとする中国社会のプレッシャーに抵抗する、「交流」を重視する中国の若者たちのコミュニケーション文化を推し進め、さらにさまざまな「支流」を生み出していくことに弾幕は非常に適しているとわかるだろう。
ただ、弾幕による「ツッコミ」は一種のサブカルチャーとして、基本的にくだらなくて、笑えるものに使われる。そのため、「反抗」「抵抗」といった多分に政治的な意味合いを持つ言葉に違和感を覚える人もいるだろう。しかし、そもそもなぜ「反抗」や「抵抗」をそのような大仰で、政治的な言葉として捉える必要があるのか。政治の語彙を使って抵抗したり、反抗したりすることだけが政治へのカウンターではないはずだ。
例えば、2020年から2022年にかけて、中国の新型コロナウイルスの対策で多くの人々が自由を厳しく制限され、家庭や仕事に大きな支障が生じていた。その時、ネットでドラマ『三国志演義』を視聴していたユーザーたちは、曹操が董卓の開催する「廃帝」の宴会に赴いた際に手に赤い招待状を持ってお辞儀するしぐさを、人の移動を管理し監視するために発行していた「健康コード」をかざすしぐさに見立てた弾幕を投稿して盛り上がったりしていた。
それは笑いを引き起こすだけのくだらないネタでしかないのかというとそうではない。権力の構図が大きく変わろうとしている、大激動を予感させるその場面で、諸侯もまた律儀に「健康コード」をかざして管理を受けるという不条理さを際立たせることで、翻って自分たちの置かれている状況の不条理さを強調するのだ。政治的な言葉を使わず、政治的な意図がなくても、強い政治的な意味合いを持ってしまうことがある。
「白紙革命」という究極の表現
中国政府によるコロナ対策は、有無を言わせない強制力を持つ。言い換えれば、それは政府によって規定された文脈の中でのみ受け取られ、実行されることを要求する。それに対して、「ツッコミ」とは対象を独自の形で縁取って、別の視点や文脈の中に置いてその意義を再考することで、別の受け取り方があるという事実を思い至らせる。
「ツッコミ」というコミュニケーション作法の普及は、若者たちにそのような文脈の操作の技術を鍛えさせ、彼らの感性を変えた。そして、その技術と感性は当然中国の社会問題や政治問題にも向けられる。
例えば、昨年の過剰な防疫政策に抵抗する「白紙革命」はまさにその究極の表現にあたるだろう。中国の若者たちが連鎖するように次々と掲げていった白紙には一切の政治的な主張が書かれていないからこそ、そのありうる文脈を想像せよと見る者に迫る。そして、誰もが思い至る。政府の規定する文脈以外に私たちには何も許されておらず、その白紙の空白は私たちの主体性の欠如の象徴にほかならないのだと。
文化は独自の仕方で「政治」をする。ちょうどミミズが地中に隠れて何も考えずに食べ、排泄するだけで大地を耕して豊かにしてしまうのと同じように、何も考えずにくだらないネタや笑いでわいわい騒ぐだけでも政治的な感性を豊かにして、抵抗や反抗の可能性を育むことができる。日本の文化もそれに少なからず貢献をしているのだ。
楊駿驍
早稲田大学文学学術院 講師。博士(文学)。専門は現代中国文学・文化。総合批評雑誌『エクリヲ』などで文化批評を執筆。近著に連載「<三体>から見る現代中国の想像力」や「Re-Verse 世界の再-詩化」など。中国語図書室「遇見書房」顧問。NPO法人ほしのひかり理事。中国生まれ、日本育ち。満州族。
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