例えば、ウェブマンガでは弾幕は流れていくのではなく、テキストボックスとしてポップアップしてくるため、マンガのもともとの吹き出しと並列されることになり、まったく新しい読書体験を実現した。

 そのような過剰な一般化の背景には、上で述べたような、中国における、サブカルチャーとコミュニケーションとの独特な関係性がある。日本が生んだ弾幕はまさにそのようなコミュニケーション中心の文化にぴったりで、かつさらにそれを推し進めるツールとして大いに歓迎されたのだった。

「計算された効果」の解体が意味するもの

 日本において、「弾幕」は主に共有された動画やライブ配信などに限定して使われていたのに対して、中国では映画、アニメ、ドラマなどの作品にも使用される。どのように使われているのかというと、ひと言でいえば、もともと交流を目的とした動画ではなく、交流の対象となることを想定していなかった「作品」に対しても「ツッコミ」をしながら観ているのだ。

「ツッコミ」とは単に相手をからかうことやうまい切り返しを意味しているのではなく、相手の述べたことに別の視点から問題点を指摘すること(で笑いを引き起こすこと)である。漫才用語として基本的にボケとセットで使われるが、真剣な議論において「ツッコミを入れる」という用法もあるため、用意されたボケでなくとも、すべてがツッコミの対象となりうる。

 また、この記事にある研究が示しているように、ツッコミとは一種のフチドリである。対象の「どこ」を「どのように」見るかを操作することによって新しい効果や意味を生み出すコミュニケーションの作法である。

 作品にツッコミながら観る、ということは、場合によっては、作者や監督が作品を通して引き起こしたい効果を無化してしまうことにつながりかねない。

 例えば、ある映画の登場人物が深刻な危機に直面して、非常に厳しい表情がアップになっている場面で、「(その表情は)夏休みがもうすぐ終わるのに、宿題が全然終わっていない時の自分」という弾幕が流れてきたとしよう。ここでは、「厳しい表情」という部分が元の文脈から切り離され、「宿題が終わらない生徒」という全く異なる文脈へと接続されている。それによって、元の場面を通して監督が実現したいと思っていたシリアスな効果がむしろ正反対の笑いを誘う場面に変わってしまうのである。場面と場面、部分と部分との関係がきちんと計算されて構築された全体としての作品がここで解体されている。

 さらに、「弾幕」は作品の断片化、全く別の文脈への接続を通して、作者や監督の権力に反抗しているとさえいえる。作品の解釈と観方は自由だという者もいるが、作品内のシリアスな危機と夏休みの宿題が終わらないという滑稽な危機とを並置する自由まではさすがに想定していないだろう。その自由さは多くの読者や観客をつないで、集団として作品の全体性、作者の権力を脅かすのだ。

 重要なのは、アニメやマンガ、ドラマなどの日本発のコンテンツの受容を通して、「ツッコミ」という、対象と向き合う際の自由で反抗的なコミュニケーション作法が、弾幕の実装を機に一気に中国の若者に普及していったことである。

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