北京の日本大使館。外務省からは、いまだに連絡がないという(写真提供:共同通信社)

 6年3カ月におよぶ過酷な拘束を経て、ついに日本に帰国したとき、成田空港に降り立った彼を待つマスコミは1社もなかった。騒ぎを避けたい在中国日本大使館が本件をマスコミに知らせなかったのだ。

 茨城の実家に戻り、風呂に入り、ずっと食べたかった日本の料理を食べ、柔らかい布団に顔をうずめたとき、映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977)の高倉健を思い出した。拘束前に96キロあった体重は68キロまで落ちていた。

 200回以上訪中し、中国の4つの大学で教鞭をとり、30年以上も日中の関係強化に尽力してきた男はなぜ中国で突然拘束され、屈辱的な長い獄中生活を強いられたのか。釈放され帰国した鈴木英司氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──鈴木さんは、2016年7月15日から、2022年10月11日までの2279日、6年間にわたり中国で拘束され、投獄生活を強いられました。どのように拘束されたのか教えてください。

鈴木英司氏(以下、鈴木):2016年7月15日に、中国の日本大使館の前にある「二十一世紀飯店」というホテル内の日本料理店で知人と昼食を取りました。その後、空港へ向かうためにタクシーに乗りました。

 午後3時10分に北京空港の第三ターミナルに到着しました。車から降りたら5、6人のガラの悪い男たちが待ち構えていた。「鈴木か」と声をかけられ、中国語で「そうだ」と答えたら、囲まれて車に押し込まれました。

 驚いた私は、車の入り口の少し高くなったところにつまずいて思わず転びました。「お前ら何者だ」と質問したら「北京市国家安全局だ」と相手は答えた。即座に「これはマズい」と思いました。

 頑強な男たちで、とても抗える雰囲気じゃない。中国の安全局に対する下知識があったので「殺されるかもしれない」と内心考えました。

 言われるままに車に乗り込みました。「身分証を出せ」と私が言ったら、相手は書類を突き付けてきた。そこには私の名前が記載され「北京市国家安全局はスパイの疑いで鈴木を拘束することを許可する」と書かれていました。

 北京市国家安全局長の李東(リトウ)の名前が署名にありました。私は「日本大使館に連絡してほしい」と言いましたが、「私たちの仕事ではない」と断られ、到着した先で頼むように言われました。

「これからどこへ行くのか」と質問すると「言えない」と言われました。「時計をわたせ」「ケータイをわたせ」「ベルトも外してわたせ」と次々に取られ、最後に黒いアイマスクを付けられた。そこからおよそ1時間車で移動しました。

 どこかの建物の部屋に連れ込まれ、アイマスクを外すことを許されました。そこは古びたホテルの一室でした。私は1日、2日くらいそこに監禁されるのかと思いました。まさか、それから7カ月間も閉じ込められるとは思いませんでした。