名古屋城 撮影/西股 総生(以下同)

本物どおりの復元は可能だが…

 筆者は本サイトに、おおむね月イチのペースで、全国の城を取り上げて見どころを紹介する記事を寄せている。今回は、本当は別の城を予定したのだが、急遽予定を変更して、名古屋城天守について書いてみたい。といのも、名古屋城天守の木造再建に関する問題が、ちょっとした時事ネタになっているからだ。

 いうまでもなく名古屋城は御三家の一つ、尾張徳川家の居城だ。関ヶ原の合戦ののち、徳川家康は全国の大名を動員して名古屋の地に堅城を築き、息子の義直を入れた。

名古屋城内に立つ加藤清正石曳きの像。築城には清正以下、多くの西国大名が動員された

 その天守は、当時の最先端技術を投じて建てられ、全国の近世城郭の中でも屈指の規模を誇っていた。しかし、明治維新ののち城は新政府に接収され、軍の施設(師団司令部)となっていたため、1945年(昭和20)の空襲で標的とされ、壮大な天守も灰燼に帰した。

 戦後の1959年(昭和34)になって、天守は名古屋の復興のシンボルとして、鉄筋コンクリート造で再建された。このコンクリ天守は、外観はおおむね旧天守に沿ったものとなった(細部には違いもある)。

第2次大戦では多くの天守が消失した。広島城天守も原爆で倒壊消失し戦後にコンクリートで外観復元された 

 とはいえ、再建から50年、60年と歳月を経れば、コンクリートの劣化は避けがたく、耐震性にも不安が出てくる。そこで名古屋市では、昭和のコンクリ天守をいったん取り壊し、旧態どおりの木造天守を再建する事業を計画した。

 さいわいこの天守は、戦前に詳細な学術調査が行われて、精密な図面とたくさんの写真が残されている。これらを活用すれば本物どおりの天守が復元できる、というわけだ。計画推進の立役者となったのが、名物市長の河村たかし氏である。

名古屋城では天守とともに本丸御殿も焼失したが、戦前の調査資料をもとに近年になって木造復元されている

 ところが、この計画に「待った」がかかる。せっかく観光の目玉として天守を再建しても、車椅子用のエレベーターがなければ身障者が見学できないではないか、という意見が寄せられたのだ。

 耐震性に問題のあるコンクリ天守が立入不可となったまま、木造再建計画はいったんペンディングされた。市当局では、各方面から意見を募りつつ、さまざまな角度から検討を加えることとなった。車椅子用エレベーターを設置するには、設計を変更しなければならないが、そうすると「本物と同じ復元」にはならない。どうすればよいか。

名古屋城天守と本丸御殿。観光客が天守に背を向けて並んでいるのは本丸御殿見学のため。コンクリート製天守は現在では立入禁止となっている

 先日(2023年6月3日)も、名古屋市の主催による市民討論会で、車椅子の参加者が、身障者用エレベータの設置を求める意見を述べた。新聞等の報道によれば、これに対して、エレベーター設置反対派の参加者が、身障者がエレベーター設置を求めるのはわがままだ、我慢しろ、という趣旨の発言をしたという。

 報道によれば、この際、身障者に対する差別的表現が用いられたが、会に参加していた河村市長や市職員は、発言を制止しなかったとのことだ。しかも河村市長は、会をしめくくるにあたって「熱い討論が行われた」旨の発言をしており、河村氏や市側の対応が問題視されている(朝日新聞6月15日朝刊・東京14版など)。

 では、名古屋城天守の木造復元問題は、どう考えればよいのだろうか。

 筆者は、長年にわたり城や戦国史の研究に携わり、現在は一人の城好き・歴史好きという立場で著述業に任じている。そうした立場から、この問題を考えてみたい。(後編に続く)