(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
駅から徒歩5分にある城
稲付城(いなつけ)は、本シリーズでこれまで取り上げてきた石神井城、世田谷城、奥沢城にくらべると、城歩きの難易度が少し上がる。これまでの城は、土塁や空堀といった城郭遺構が見てそれとわかる形で残っていた。しかし、今回は意識的に地面を観察しないと、遺構の痕跡を見つけることができないのだ。
といっても城そのものへは、あっけないほど簡単にたどり着くことができる。JRの赤羽駅を西口ロータリーの側に降りて、イトーヨーカドーの前の赤羽西口本通りを南(十条方向)に5分ほど歩き、右に入るとお寺に上がる石段がある。
よく見ると、石段の上り口の所に「稲付城址」の石柱が立っている。この上のお寺、つまり静勝寺(じょうしょうじ)の境内一帯が、城跡なのである。
駅からここまで来る途中、右手の建物越しに木立を見つけ、小高い丘があるな、と気付いた方は合格点。石段を上がりながら、あたりを見回して、この場所が南から北に向かって張り出した台地の先端部にあたっていることを理解した方は、かなり優秀である。そう、「城を見る目」を養うコツは、地形を観察しながら歩くこと、にあるのだ。
石段から境内に足を踏み入れると、たいがいの人の視線は、右手の本堂の方に向く。でも、ここで大事なのは左手の植え込みの方だ。植え込みの奥の方が、自分の立っている地面より1メートルほど高いことに気付けば、合格。この植え込みは、土塁の跡である。
歴史をひもといてみよう。稲付城を築いたのは、戦国時代の初期に相模から武蔵南部に勢力をもった扇谷上杉氏である。扇谷上杉氏は、関東管領である山内上杉氏の分家であった。本家の山内家が上野から北武蔵を勢力圏としていたところに、扇谷家は江戸・河越・岩付などに城を築いて勢力をのばし、やがて山内家と対立するに至った。
実は、上の4行の中に、稲付城が築かれた理由が示されている。話は再び地形に戻る。