(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
※本稿は『脱定年幻想』(勢古浩爾著、MdN新書)より一部抜粋し、加筆したものです。
65歳の定年で会社を辞めて、とりあえず社会から降りる。もう毎朝、起きて、通勤電車で揉まれて、会社に行かなくてもいいのだ。
最大の収穫は、時間のしばりから解放されて、なにもしなくていい自由が手に入ることである。
朝、そのまま寝てもいいし、ゆっくり新聞を読んでもいいし、まったく見たこともないテレビ小説を見るのも自由だ。
しかし実際には、多くの人にとっては、なにかをしなければならないというしばりからも自由な、なにもしない自由のほうがうれしいだろう。
人はなにかを「していない」と不安になる
ところが定年を間近に控えた人が考えることは、「会社を辞めたら、おれはなにをするかなあ」ということらしい。「なにもしなくてもいいんだ」という選択肢は最初からないようである。
「おれだって定年後はなにもしたくないよ。だが遊んで暮らせる身分じゃないんでね」という人がいるかもしれない。しかし35年間勤めて退職金が800万円だったわたしがそういうならまだしも、3500万円ももらった人がそういうのである。
どうやら多くの人は、なにかを「する」、あるいは、なにかを「しなければならない」と考えているようである。
人はなにかを「していない」と不安になるらしい。気持ちはわからないではない。
なにより、「する」こと以外の生き方を知らないからである。無為の時間に耐えられず、なにもしていないと、人間としてだめになるのではないかという恐れがある。