見せしめの残虐行為

 天正2年(1570)正月には、浅井長政・久政父子と、朝倉義景の髑髏を金箔塗りにすると、身内の酒宴の席においてこれらを飾ってみせた。足利義昭政権が健在ならこのような振る舞いは認められなかった。

 だが、公儀がない今、信長には憎悪の赴くまま敵を殲滅して、辱めることが可能になってしまった。ただ、信玄への書状に「第六天魔王」と偽悪的な署名をするほどの信長であるとはいえ、これで当人が満足していたようには思えない。今川義元の首ですら丁重に扱った信長生来の趣味とは想像しにくいからである。

 試しに内的な野獣性を解放する所作をしてみたものの、意外に心晴れなかったのではないだろうか。これ以降、敵の遺体をトロフィーとして飾るような仕打ちを繰り返してはいない(武田勝頼の首を辱めたと言う伝承もあるが、後世の俗話である)。

 信長は、同年7月から8月にかけて「交戦中である伊勢長島の一揆衆が命乞いをしても決して聞き入れずに根切(ねぎり。皆殺しの意味)とするように」と家臣たちに強く言い聞かせている。これは長島一揆衆が過去に一度信長に降伏を願い出て、赦免を認めたものの再度離反したばかりか、信長の一族まで手にかけたことで、信長の憎悪を限りなく昂らせていたことが一因と考えられている。

 さらにこの頃、信長は敵対する大坂本願寺についても根切にする意向を長岡藤孝に伝えている。こちらも度重なる抗争に信長が怒りを募らせていたためとされている。

 実際に織田軍は、9月29日、伊勢長島一揆衆が降伏を申し出て、外に退出したところを銃撃して、切りつけたばかりか、城に残った2万人ほどの敵を焼殺させている。

 また、天正3年(1571)には「越前府中の町は死骸ばかりで隙間もない。見せてやりたいほどだ。今日は山々谷々を捜索して皆殺しにするつもりである」と、越前平定に際して一揆衆を惟任光秀と羽柴秀吉が皆殺しにした様子を誇っている。

 同年11月21日、信長は、織田家を裏切って武田信玄の部将と婚姻した自身の叔母を捕獲すると、岐阜城近くの河原で逆さ磔に処して殺戮させた。

覇王の誕生

 信長は、不本意にも王道から外れて覇道へと突き進んでいくことになる。

 その要因は信長の野心や気質というよりも、浅井長政の裏切りと、武田信玄の罠と、足利義昭の御謀反と、羽柴秀吉が独断で義昭との交渉を蹴ってしまったことで、連鎖反応的にそうした方向性が定められていったと見るべきかもしれない。

 信長は、拠り所とする天下の大義のために死に物狂いで強豪たちと戦ってきたが、足利義昭から見限られ、敵だけが残った。義昭は信長を切ることで、ちゃっかりと自身の敵を味方につけた。だがタイミング悪く、それまでの戦いはほとんど信長単独の勝利となっていった。信長は想像を超える勝利を持て余し、怒りを抑えられず、反撃を恐れて無軌道な殺生を繰り返していくのであった。

 ここに日本屈指の覇王が誕生していったのである。

 

【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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