信玄死後の信長

 すると武田信玄がこの状況を利用しようと考えた。

 信玄は、比叡山の復興を唱えて、信長の美濃と徳川家康の三河遠江領へ侵攻を開始したのだ。しかも事前に美濃や畿内近国の反織田派がこれに参加するよう談合しており、この大乱は入念な準備の上で開始された。

 ここに第二次織田包囲網が作り出されたが、なんと将軍・足利義昭までこれに参加した。これまで幕府のために奮闘していた信長は、その幕府から「お前は反逆児だ」と指弾される立場に追い込まれてしまったのである。

 だが、天運は信長に味方した。武田信玄が三河の徳川家康を滅ぼす手前で、病死してしまったのである。遠征半ばの死は無念であっただろう。

 ここから信長の反撃が始まる。この機に乗じて攻めてきた勢力のひとつに、美濃東北部の安養寺があった。かつて飛騨から攻めてきた上杉謙信とも戦ったこともある武闘派寺院で、元亀元年(1570)9月2日に本願寺顕如から織田への攻撃要請を受けていたが、もともと独立心が強い安養寺は、これに応じる気配を見せなかった。本願寺の要請に乗って火中の栗に手を出すべきではないと判断したのであろう。

 安養寺は信長と不仲ではなく、岐阜城に多くの人質を送ってフレンドリーな関係を保証しあっていた。

 ところが元亀3年(1572)5月、武田信玄から、西上作戦の布石として協力を打診された。さらに代々親密である美濃国人の遠藤一族が信玄の計画に参加することを伝えられた。こうして不幸にも安養寺は、織田包囲網への参加を決断したのであった。