源実朝像

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

わずか12才で鎌倉殿になった実朝

 1203年(建仁3)9月10日、頼家の弟である千幡は、わずか12才で元服して実朝と名乗り、鎌倉殿となりました。頼家が病気療養という名目で出家させられてから、3日後のことです。

「実朝を従五位下・征夷大将軍に任ずる」という朝廷からの報せが、鎌倉に届いたのは9月15日。いくら権力の空白を作らないためとはいえ、どうにも手回しがよすぎます。しかも、任官の決定が下されたのは9月7日、つまり頼家が出家したのと同じ日となっているのです。

 もちろん、メールもファクスもない時代のことですから、鎌倉と都との間の連絡には何日もかかります。また、「実朝が後を継ぐから将軍に任じて下さい」という要請書を作成するには、北条時政・義時たちだけでは無理。大江広元・三善康信といった文官たちの協力が必要です。

大江広元像

 一方で、比企能員が討たれたのは9月2日ですから、時政側が大江広元や三善康信を抱き込んだ上で、比企討滅クーデターと実朝の任官手続きとを、同時併行で進めたのは間違いありません。前回(第32回)の『鎌倉殿の13人』で描かれたクーデター計画は、合理的に推測できる史実にをたくみにドラマ化していたということができます。

 ちなみに今回(第33回)の最初のところで、執務始めの儀式を時政が取り仕切り、実朝が甲冑を着ているシーンがありました。『吾妻鏡』には「吉書始めの儀式の後、(実朝は)初めて甲冑を着て馬に乗った。時政がこれを補助した」とあるので、史料の記述を忠実に再現したシーンといってよいでしょう。

 この儀式は、「文」と「武」をそれぞれ体現しています。つまり、鎌倉殿とは、鎌倉幕府という行政府の首領であると同時に、武家の棟梁=軍事政権を率いる総司令官でもあるわけです。と同時に、もうひとつ、気付いてほしいことがあります。

 実朝が、頼家の後を継ぐのと同時に征夷大将軍に任ぜられていることです。

 もともと頼朝は、朝廷から与えられる官位や官職とは関係のないところで、武士たちによって推戴される鎌倉殿となりました。そののち、頼朝が武士たちを統率しているという現状に対する追認として、朝廷は右近衛大将や征夷大将軍の官職を与えてきました。

源氏山公園の源頼朝像 撮影/西股 総生

 しかし、頼朝にとっての権力の源泉は、朝廷から与えられた官職ではなく、「武士たちによって推戴される鎌倉殿」という立場でした。ゆえに頼朝は、右近衛大将はさっさと辞任し、征夷大将軍の方も返上を申し出ました。

 次に頼家は、まず鎌倉殿の立場を継いだことを御家人たちから認められます。朝廷からは左近衛中将に任じられるとともに、全国の守護・地頭を引きつづき指揮するよう命じられ、数年後に征夷大将軍に任官します。つまり、ここまで鎌倉殿の立場と征夷大将軍のポストとは、イコールではなかったのです。

 今回、実朝への代替わりによって、とうとう鎌倉殿=征夷大将軍となりました。ではなぜ、朝廷は「鎌倉殿=征夷大将軍」を直ちに認めたのでしょう?  次回は、この問題について考えてみましょう。

 

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