米国の戦略の柱になった
「自由で開かれたインド太平洋」
また、アジア地域における米国の軍事的プレゼンスを支える同盟国である日本は、ほかのことに気を取られている米国の関心をつなぎ止めておくためにもっと努力する必要がある、と安倍氏は考えていた。
その一つが「自由で開かれたインド太平洋」という、今ではアジアにおける米国の大戦略の中核的概念となっているアイデアの種をまくことだった。
まず、第1次安倍政権(2006~07年)の時にオーストラリア、インド、日本、米国による「クアッド」なるものの促進を試みた。
同盟というよりは、中国の台頭がもたらす影響を懸念する国家の連携だ。
このアイデアは立ち消えたが、安倍氏は2期目にこれを復活させた。説得が難しかったのは、非同盟の伝統があり中国を怒らせたくないと思っていたインドだった。
当時オーストラリア首相だったマルコム・ターンブル氏は、インドのナレンドラ・モディ首相を相手に「尽力を重ね」、ついにインドを翻意させたのが安倍氏だったと述べている。
世界の首脳と交流するスタイル
モディ氏とハグするなど、外国の指導者と心のこもった付き合いをするスタイルも功を奏した。
安倍氏はドナルド・トランプ氏の大統領当選をもって米国が変わったことを最初に理解したアジアの指導者でもあった。
新しい米大統領が昔からの米国の同盟国をこき下ろし、計12カ国で発足する予定だった環太平洋パートナーシップ協定(TPP)から離脱しても、トランプ氏としっかりハグした。
安倍氏はターンブル氏と協力しながら、様々な障害を乗り越えてTPPの構想を維持し、ついにはその後継である「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定」の締結にこぎ着けた。
あれで「何でもかんでも米国と一緒にやる必要はない」ことが示されたとターンブル氏は振り返る。
米国が復帰するためのドアがまだ開かれていること――米国のアジア戦略で目立って欠けているのは経済面の戦略だ――は、誰にも増して安倍氏のおかげだ。