例えば、惟任光秀と明智光秀

 戦国時代の例を出そう。

 大河ドラマの主人公になった人物に「明智光秀」という武将がいる。天正3年(1575)、織田信長は光秀に「惟任(これとう。維任)」の苗字と「日向守」の官名を授けた。以後、光秀は「惟任光秀」と公称されており、天正10年(1582)に土民に殺害されるまで「明智光秀」とは名乗らなかった。

 だから、この間の光秀は明智光秀ではなく、惟任光秀と呼ぶべきである(同様に「明智日向守」という名乗りもありえない。明智時代はこの官名を与えられていないからである)。これは、晩年の上杉謙信を長尾景虎と呼ばない、中年以降の徳川家康を松平元康と呼ばないのと同じである。

 ただ、江戸時代の二次史料では、「惟任光秀」と呼ぶ例がほとんどなく、いずれも「明智光秀」と書き通している。それで多くの人が“光秀は死ぬまで明智光秀と呼ばれていた”と思い込むようになったのだ。

 ちなみに年次不明の古文書に「明智日向守」と署名されているものがあって、専門家は本文に怪しげなところがあるのでこれを「要検討」としていたが、こうした経緯を知っていると、これが江戸時代になって作られた偽文書であることがわかる。

 だから、二次史料は読まずに一次史料だけを読めと言う歴史学者がいるのも理解できなくはない。ただ、それでも私は二次史料も読んでおくべきだと考えている。

 その理由は、二次史料で「明智」表記が定着しているのはなぜかという疑問が新たな考察を生むからである。実のところ戦国時代の史料を見ると、本能寺の変が起きてすぐに多くの人物が「明智」表記を使い始めている。例えば、これから仇討ちに向かわんとする羽柴秀吉も「明智」呼びを使っているし、誰もが惟任呼びを無かったかのように「明智」表記を通しており、しかもこれが短期間のうちに定着している。

 そこから想像できるのは、信長生前の光秀がかなり嫌われていて、陰では「信長さまから惟任なんてたいそうな呼び名を与えられたが、つまるところ足軽あがりの明智だろうが」と認識されていただろうことである。実際、同時代の宣教師も「彼(光秀)は諸人から嫌われ」ていたと証言している(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。

 また、光秀は信長の機嫌を取るのが得意で、信長も光秀が気に入っており「あなたの手紙はこの目で見るようにわかりやすい」「(近年の武功まことに)比類なし」「天下の面目を施した」と事あるごとに絶賛している。これらから、光秀を信長が寵愛するのを気に入らない人がたくさんいたことを想像できる。

 こうした推量は二次史料の知識(江戸時代に「明智」表記が定着していた事実)があるから可能となることである。このように二次史料も、該当する時代の空気を考える上で有用なのである。

事実と物語と真実が開く未来

 初代の後、無重力弾という最終回の設定を脇に置いて、その根本理念に基づくウルトラシリーズが作られ続けているのも、初代で描かれた正義のヒーローを愛する視聴者心理があればこそで、ここから初代マンがどのように受容されていたかが読み取れる。シリーズを通して再生産される物語に、事実ではない真実が証明されているのである。

 樋口真嗣・庵野秀明の「シン・ウルトラマン」は、令和の世に初代マンを再構築したが、随所からシリーズ各作への愛を感じ取れる。

 歴史研究においても新たな歴史を紐解くため、一次史料だけでなく、二次史料や先行研究へのリスペクトを忘れずに各種文献へと接していくことを心掛けていきたい。

 

【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

【歴史ノ部屋】※無料トライアル実施中!
https://www.synchronous.jp/ud/content/613ae89077656127a1000000