無実の罪着せられ斬首

 造船所と言っても、小栗が構想したそれは、ただ船を造るだけの施設ではありませんでした。船舶用のロープや帆、歯車、ねじ、シャフトの他、鍋や釜、スプーンやナイフなど、あらゆるものが生産できる総合工場でした。また、学校も作られ、優秀な若者たちがフランス人技師から工学などを学び、高度な知識を蓄えた技術者が多数育成されたのです。

 もちろんこのときは、まさか40年後に日本がロシアの巨大艦隊と闘うことになろうとは、誰も想像していなかったでしょう。しかし、横須賀造船所が作られていたことで、日本は独自の技術を駆使して、速度の速い駆逐艦や魚雷艇を自作し、結果的にそれらが日本海海戦で、小さいながらも大きな力を発揮し、ロシア艦隊を撃沈することになったのです。

 造船所が完成して間もなく、幕府は終焉を迎えます。明治新政府は幕府が最後に残したこの「横須賀造船所」によって、はかりしれない恩恵を受けました。しかし、これほどの功績を残した小栗に対する新政府の対応は、あまりに冷酷なものでした。

 1868年5月27日、地元の群馬県権田村に戻っていた小栗は、「叛逆の意図は明白」などと根拠のない言いがかりをつけられ、罪なくして首を切り落とされたのです。

 小栗の命日である5月27日が、奇しくも、日露戦争における日本海海戦(1905年5月27日)と同じ日であることにも、不思議な因縁を感じます。

 結局、小栗自身は日本が急速に近代化を果たしていく明治の世を見ることはできませんでした。