アメリカから帰国後、日本に造船所を造った小栗忠順
使節団一行は、アメリカで造船所やドック(船を修理するための船渠)も見学しました。そこでも小栗と佐野は何らかの会話を交わしたかもしれません。
蒸気エンジンを使った巨大な機械が動くさまを目の当たりにし、若い彼らは大きな驚きと衝撃を感じたことでしょう。
アメリカから帰国した小栗は、前述した通りすぐに日本での造船所(製鉄所)建設のために奔走します。
加賀藩士だった佐野鼎も、同じく藩主にその必要性を訴え、七尾で製鉄所の建設計画を進めます。しかし、七尾の製鉄所は結局、維新後、藩がなくなったことで完成せず、佐野鼎が外国から取り寄せた各種機械は、その後兵庫に移送され、現在の川崎重工業の礎になっています。
いずれにせよ、アメリカから帰国後、小栗と佐野がとったそれぞれの行動を見ていると、身分に大きな差はあるものの、その考え方や目の付けどころ、感性はとても似ているような気がするのです。
『小栗さま』の著者である村上泰賢氏は、小栗の墓所がある「東善寺」(www.tozenzi.cside.com/sinchaku-2022.html/群馬県高崎市倉渕町)の住職です。
小栗忠順の足跡と実績を研究し、著書も多数著してきた村上氏は、横須賀造船所が日本の近代化に与えた影響について、『小栗さま』の中でこう表現しています。
「富岡製糸場は横須賀造船所の妹、中島飛行機(現スバル自動車)と呉市の海軍工廠は弟、日本のモデル鉱山となった生野銀山は、横須賀造船所の機械と工具で近代化した義弟です」