小栗自身は、1868年、明治新政府軍によっていわれのない罪を着せられ、日露戦争が起こる36年も前に41歳という若さで惨殺されました。つまり、小栗と日露戦争とは直接関係がありません。にもかかわらず、東郷は小栗の遺族を自宅に招き、心からの礼を言い、そして「仁義礼智信」という書をしたためて、記念に贈っていたというのです。

幕府の運命に限りがあっても、日本の運命に限りはない

 東郷がその存在に心から感謝したという「横須賀造船所(製鉄所)」。

 その建設は、万延元年遣米使節(1860)としての9か月に及ぶ航海から帰国した小栗が、その後、4年間にわたって提案し続けた末に実現した一大プロジェクトでした。

 渡航先のアメリカで実際に造船所や製鉄所を見学した小栗は、日本の近代化のために、必ずこうした施設が必要になることを痛感しました。西洋の国々から艦船を購入したとしても、それらはいつか必ず故障する、そのとき、日本として船を造る技術を持っていなければ、修理することすらできないと考えたのです。

小栗忠順や佐野鼎が見学したワシントン海軍工廠に残るドック(筆者撮影)

 しかし、この時期、幕府の財政はすでに逼迫し、幕府自体がいつまで続くかが危うい状況でした。そんな中、周囲からは当然、造船所建設に対して大反対の声が上がります。しかし、将来を見据え、確固たる信念を持っていた小栗は、

「幕府の運命に限りがあっても、日本の運命に限りはない」

「同じ売家にしても、後の日本のために、土蔵付き売据えの方がよいではないか」

 という言葉を発して、決して引き下がらなかったと言います。

 とても重みのあるこれらの言葉と小栗の熱意が、周囲の幕臣たちの心を揺さぶったのでしょう。結果的に小栗の意見は押し通され、元治元年(1864)、日本初となる蒸気機関を使った近代的な造船所の建設が横須賀の地で認められました。

明治時代に撮影された横須賀造船所(不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)