遣米使節の旅で小栗と会話した佐野鼎

 さて、小栗忠順と東郷平八郎の話に終始し、本連載の主人公である「開成を作った男・佐野鼎(さのかなえ)」の登場がすっかり遅れてしまいましたが、実は、佐野鼎も万延元年遣米使節団の一員としてアメリカへ渡っており、小栗と同じ船に乗って長い航海や鉄道の旅を共にしていました。

 といっても、将軍にもお目見えのできる目付の小栗と下級の加賀藩士である佐野とでは身分に差がありすぎて、対等に話せる関係ではなかったでしょう。それでも、佐野鼎の記した『訪米日記』や日本で帰りを待つ友人に宛てた手紙の中には、「小栗公」「小栗殿」という名前がたびたび登場します。

佐野鼎がハワイから日本に送った手紙の写し。左下に「小栗」の文字が見える(筆者提供)

 たとえば、太平洋を横断中の大しけで、小栗はじめ多くの使節が酷い船酔いに苦しんだこと、その後、回復したこと、また、サンフランシスコで合流した咸臨丸のメンバーと小栗が対面したことなども詳細に記されているのです。

 1829年生まれの佐野鼎は、小栗より2歳下でほぼ同年代です。長崎海軍伝習所の一期生として、最新の航海術や西洋砲術を学んでいた佐野は、今でいう「テクノクラート」のような存在だったと思われ、小栗はおそらく、専門的なことについて佐野に質問などしていたのではないでしょうか。

 佐野鼎の親友である肥後出身の木村鉄太(1828~1862)が、若き日に小栗と共に漢学者の安積艮斎(あさかごんさい)から学んでおり、遣米使節団では小栗の従者をつとめていたという関係も影響していたのかもしれません。実際に佐野は、アメリカ行きの船の中で小栗から声をかけられるようになったと手紙に記しています。

 とにかく、佐野にとって、小栗は特別な存在で、きっと小栗から話しかけられることがとても嬉しく、誇らしく、印象に残る出来事だったに違いありません。そんな気持ちが、手紙の文面から伝わってくるのです。