(乃至 政彦:歴史家)
一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信が武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代の天皇の行幸から、織田信長、明智光秀、伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代の大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、序章を3回に分けて公開する(JBpress)。
◉軍隊行進だった「大名行列」(1)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68907)
財政圧迫だけではない「大名行列」の目的
もし⼤名財政の圧迫、つまり⼤名の弱体化を⽬的とするものだったら、幕府はまず斬り捨て御免の習俗からやめさせるべきだっただろう。
斬り捨て御免は、地⽅の⼤名たちに「我らは⾃⼰判断による武⼒⾏使が可能な存在だ」との思いを強めさせる恐れがある。幕府が本⼼から⼤名を⼼服させたいのなら、彼らが特権的な戦⼠階級であることを忘れさせ、腑抜けの集団にさせる⽅がよい。そのためには、⼤名⾏列の武装を禁⽌するのが合理的ではないだろうか。
参勤交代やその他⼤名の⾏列は、いずれも旗・鉄炮・⼸・⻑柄鑓・ ⾺上の兵科を並べることが習慣化されていた。だが、幕府が⾏列の武装を禁⽌したり、抑制したりする法令を出すことはなかった。
徳川幕府が確⽴した元和元年(1615)の「武家諸法度」には 「京都で騎⾺20騎以上が集まってはならない」と記されているが、もし⼤名を無⼒化したいならこのように武装の制限を強めればよかったはずである。だが、先の禁令は寛永6年(1629)の武家諸法度改正で削除されてしまっている。
なお享保の改⾰(1716~45)で、幕府は⼤名の出費を抑えるため、参勤交代の緩和を検討した。安政年間(1854~60)の幕末にも緩和を検討している。
ところで幕府が本当に、労⼒と財⼒の浪費を主⽬的としていたなら、地⽅⼤名もその真意を⾒抜き、より強く反発したはずだが、そのような形跡は何も残っていない。
事によっては、参勤交代の制度を逆⽤することもできただろう。例えば⼤名同⼠で⽰し合わして江⼾城の攻囲を企むという共謀の恐れとてありえたかも知れない。幕府も当然そうした事態を想定して、対策を練っておく必要がある。
そのためには⼤名⾏列が武器(戦争の⽤具)を持つことに制限をかけるしかない。華美な装飾品(楽器や旗など)の所持を盛んにさせ、サーカス集団のごとき曲芸の推奨をしておくのが望ましかった。
徳川以前の歴史に前例がないわけではない。例えば律令制下の⽇本 (7世紀~10世紀ごろ)では、官軍以外の者が武器や道具を所持して隊を構成することが固く禁じられていた。
戦国時代には、京都で催された織⽥信⻑の天覧御⾺揃え (1581)が興味深い。朝廷に害意がないことを⽰すため、その⾏列には鉄炮が持ち込まれていないのだ。また、豊⾂秀吉は⼑狩り(1588)と称して、百姓の武装に厳しく制限をかけることを図った。
この歴史的⽂脈で徳川幕府が、⼤名諸藩がいつでも開戦可能な態勢で移動することに無頓着だとは考えにくい。被⽀配層の武装を好む権⼒は古今に例がないからである。
このように幕府が⼤名の圧迫と服属を⽬的として、巨⼤な⾏列を習慣化させたとする通説には強い疑問が残る。消耗させたいだけならほかにも⼿はあったはずである。