ホーリーネーム制に飽きてきた無惨

 だが、以後の十二鬼月たちは、その特徴に合わせ、平易な漢字で名付けられていく。特に重視しているのは、その経歴・外貌・能力である。

 例えば童磨は、少年の身らしく「童」の字と、教祖らしく、「磨」(道理を極めるの意味)という字をくっつけただけのシンプルさで、鬼らしさが全くない。半天狗と玉壺は見た目通りで、何の工夫もないあっけなさである。

 そして、妓夫太郎は人間の名前そのままだ。妹の堕姫も捻りが控えめで、自身の名付けであるかも知れない。この頃、無惨はネーミングの初期構想から離れつつあったように見える。

 無惨が鬼にホーリーネームを与える時、下弦の鬼に就任する証として名付けていたはずである。だが入れ替わりの激しい下弦の鬼に、1人1人期待する熱意は次第に薄れて、そればかりか下弦の有用性にも疑問を抱き始めていた。やがて凝った名前をつける必要性を覚えなくなった。そうして妓夫太郎や累のように人間そのままの名前であったり、または簡単なネーミングで済ませるようになっていったのだろう。

 そして、竈門炭治郎らが登場する作中の時代になると、上弦も下弦も次々と斃されていき、獪岳のように人間そのままの記憶と名前で上弦となる者が現れてくるのである。ここに無惨の余裕のなさがはっきりと反映されている。

 無惨はいざとなれば、合理性を最優先にして、精神性をあっさり投げ出せる思考の持ち主である。「無惨は生きることだけに固執している生命体」(第195話)であるから、その時の都合によって初期のルールやポリシーを簡単に捨てられるのである。

 このように十二鬼月のネーミングを追ってみると、“変化”を嫌うはずの無惨が、意外にも時代や状況に対応して、その態度や思考を柔軟に変化していることが見えてくる。

 外国の諺(ことわざ)に「言葉に気をつけなさい、それは行動になるから。 行動に気をつけなさい、それは習慣になるから。 習慣に気をつけなさい、それは性格になるから」という言葉がある。古人の言うとおり、人物の言葉や行動から、その習慣と性格を想像することは可能である。

 無惨のセンスから、その性格や思考を読みとることも可能なのだ。

無惨の正体と想い

 珠世は無惨を「あの男はただの臆病者です」「いつも何かに怯えている」と評した(第18話)。彼女が無惨の言動を観察して、探り得た1つの真実であるのだろう。我々も断片的に拾い出せる無惨の言動や経歴を整理することで、その正体、ひいてはその想いすら探り出すことができるかもしれない。

 人間は他人の経験と記憶をつなげて、文化と歴史を作り出す。無惨の想いを探り出すことは、その思考と想いを継承することになる。

 歴史には光もあれば、闇もある。

 人類が自ら犯した悪業、罪過、非道の歴史に目を向け、前車の轍を避けて前へ進むこと。それが「歴史に学ぶ」と言うことだ。

 我々が無惨の想いを鬼という異物としてではなく、人間の経験に落とし込むことができるなら、それが無惨への追善となるであろう。

【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

【歴史の部屋】
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