(英エコノミスト誌 2022年1月1日号)

日中国交正常化のために訪中し毛沢東国家主席、周恩来首相と握手する田中角栄首相(肩書きは当時、1972年9月27日=調印式は29日、写真:Legacy Images/アフロ)

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強大ではあるが、危険なほど自信過剰でもある国

 日本から中国に送られた公的な使節の記録のうち、信頼できる範囲で最も古いものは西暦238年にまでさかのぼる。

 これによると、日本の女王・卑弥呼が三国の1つ「魏」に使いを送り、奴隷10人と長さ20フィート(約6メートル)の織物を献上したという。

 7世紀までには、当時の日本の大部分を支配していた氏族・ヤマトが、貢ぎ物を持った使節を「隋」や「唐」の宮廷に定期的に送るようになった。

 日本は中国の文字を取り入れ、日本の僧侶や学者は中国の宗教を吸収した。

大きな隣人を見守ってきた日本

 日本は何世紀にもわたって、大きな隣人の様子をすぐ近くから、警戒しつつ見守ってきた。

 1970年代後半から1980年代にかけては、戦時中の残虐行為についての罪悪感も手伝って、中国の近代化を後押しした。

 中国の成長市場に真っ先に進出した企業のなかには、日本の企業の姿もあった。

 その一方で、日本の指導者は中国の拡張主義に早くから警鐘も鳴らしていた。

 東シナ海に浮かぶ無人の岩礁「尖閣諸島(中国名・釣魚島 )」をめぐる対立が2010年から2012年にかけて過熱した後は特にそうだった。

 かつて駐米大使を務めた佐々江賢一郎氏は「私たちは米国に警告した。これは日中間の小さな問題として片付けられるものではなく、この地域で大国が育ちつつある兆しだと訴えた」と語る。

 そうした見解は欧米で聞き入れられなかった。

 当時の欧米の指導者は、中国を世界経済に統合することの利益にばかり目を向けていたからだ。

 ところが近年、中国による香港での圧政、新疆ウイグル自治区での抑圧、さらには台湾周辺での武力による威嚇などを見せつけられたことで、西側諸国の政府の多くも疑り深くなっている。