ユグノー戦争の中で起こったサンバルテルミの虐殺(フランソワ・デュボア, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 1517年にマルティン・ルターが宗教改革を開始すると、その影響は西欧世界に広がり、各地で「プロテスタント」が出現します。

 フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンもルターに影響された一人でした。彼は弾圧から逃れるために1540年代にスイスのジュネーヴに亡命しますが、そこで引き続き改革運動に情熱を注ぎました。そのカルヴァンの影響力は母国に及び続け、「ユグノー」と呼ばれるカルヴァン派の人々がフランスでは増えていきました。

フランスを二分した「ユグノー戦争」

 こうしてフランス国内で旧教(カトリック)と新教(ユグノー)との対立が深まりだしますが、ここに貴族同士の党派抗争も重なり、国内を二分する戦争へと発展してしまいます。これが1562年から1598年まで続いた「ユグノー戦争」と呼ばれる宗教戦争です。

 1572年、サンバルテルミの虐殺と呼ばれる、約3000人のユグノー貴族が虐殺されるという凄惨な事件が発生すると、カトリック側に付くスペイン、ユグノー側に付くイギリスという外国の対立も重なって、戦争の構図はさらに複雑なものとなりました。

 しかし内戦が長期化する中、宗教問題よりも国家統一を望む声が高まりだします。そうした中で、1589年、ユグノーだったブルボン家のアンリ4世が王位につきます。これがブルボン朝の始まりとなります。それでも旧教派はアンリ4世を国王と認めようとしなかったため、1593年に彼はカトリックへ改宗し、ようやく正式な国王として認められることになりました。

 もちろんこれではユグノー側の不満は収まりません。そこでアンリ4世は、1598年、ユグノーの信仰の自由を保証する「ナントの勅令」を出しました。こうして旧教、新教双方に配慮することで、国内の宗教対立を終結させたのでした。