雰囲気にのまれた幼稚な日本の外交はその後も続いた。1978年に日中平和友好条約の批准書交換のために来日した鄧小平は尖閣諸島の棚上げ論を展開した。
そのまま見過ごして日本が何の手も打たないうち中国は1992年に領海法を制定して自国領に組み込む。中国の「尖閣窃盗」は明らかで、日本はいろんな手段や広報で、中国の言い分を否定すべきであった。
日本は尖閣諸島を目に見える形で施政権下に収めるチャンスは国交正常化前から何回もあった。しかし日本には尖閣諸島の重要性についての認識がなかった。
国交正常化後も日本の力が勝っていたが日本は動かなかった。
中国の執拗さに対して、日本の淡泊などとは言っておれない戦略の不在であり、危機管理意識の無さである。こうした意識が憲法問題に反映されていることはいうまでもない。
尖閣諸島開拓の記念碑
いまさら言うまでもないが、尖閣諸島が日本の施政権下にあったことは紛れもない事実である。現在は石垣市が「尖閣諸島開拓の日」(1月14日)を設けて各種行事も行っている。
同市には尖閣諸島を開拓し、事業を行った事績を祈念して「古賀辰四郎 尖閣諸島開拓記念碑」があり、現在は同地に駐屯する自衛官らも記念日に清掃奉仕など行っている(自衛隊OB機関紙「隊友」(令和3年3月15日付)による)。
古賀辰四郎は1856年に八女市(福岡県)に生まれ、23歳の時、特産物である八女茶の販路拡大を求めて沖縄に渡り、アホウドリの羽毛や夜光貝を採取・輸出して財を成す。
1895年に政府が尖閣諸島を日本に編入すると、魚釣島と久場島を拠点に鰹節製造事業などを展開し、最盛期には200人以上の島民が定住して「古賀村」とも呼ばれたという。
1909年に功績を認められ日本政府から藍綬褒章を受賞、1918年に死去した。
1919年冬、福建省(中国)の漁民31人が遭難し、魚釣島に漂着した。石垣村民が救助したことに感謝し、翌20年に中華民国の駐長崎領事が感謝状を出している。
すでに見つかっていた感謝状は救助者あてであったが、中国漁船の巡視船追突事案後に見つかった感謝状は村長宛となっている。