この作戦では戦果よりも確実な成功が求められました。そのため、太平洋上の空母から爆撃機を飛ばし、日本本土の空爆後はそのまま同盟国の中国(当時は中華民国)まで飛んで、中国大陸で機体を廃棄するという手段が採られています。指揮官のジミー・ドーリットルの名前から「ドーリットル空襲作戦」と名付けられ、一部で被撃墜機が出たものの、東京、横須賀、名古屋、神戸などへの空爆は見事に成功しました。

 この作戦の成功は米軍内の士気を高めただけでなく、日本軍部にも大きな衝撃を与えました。その衝撃を払拭するためか、日本軍部内でも報復として米本土への爆撃作戦が企図されることとなりました。

潜水艦からの出撃

 この時に日本軍が考え出した作戦は、潜水艦で米国西海岸へ近づき、潜水艦内に折り畳んで格納されている零式小型水上機を飛ばして海岸地帯の森林を爆撃し、山火事を引き起こすというものでした。

 作戦を実行するパイロットには、かねてより同機に熟練し、腕が高いと評判であった藤田信雄が選ばれることとなりました。

 こうしてパイロットに指名された藤田でしたが、その作戦内容の困難さから生還できる自信が持てず、遺書を書き残して出撃に臨んだといいます。当時、日本と米国西海岸との間に、潜水艦が燃料補給できる場所はありませんでした。また空爆の前後に米軍の警戒網に感知される可能性も高く、一撃を加えるだけならまだしも日本本土に帰還しなければならないことも含めると、非常に困難な作戦であったことは間違いないでしょう。

 それでも命令を受けた藤田は拒否することはせず、伊号第25潜水艦(「伊25」)に乗り込み、米本土へと旅立ちました。

空爆に成功し帰還するも・・・

 日本出発後、約1カ月の航海を経て、藤田の乗った伊25は無事に米国西海岸まで接近しました。満を持して9月9日、藤田は爆装した零式小型水上機に乗り込んで出撃し、オレゴン州の森林地帯に焼夷弾を落とすと、大過なく帰還することに成功しました。続いて9月29日にも出撃して、やはり前回同様に焼夷弾を投下した後、無事に伊25まで帰還しました。

 三度目の攻撃も計画されていましたが天候不良により中止され、伊25は日本への帰路につきました。途中、ソ連の潜水艦を米軍の潜水艦と誤認して沈めるなどいくつか小規模の戦闘こそあったものの、懸念された米海軍の追跡などはなく、伊25は無事に日本本土への帰還を果たしました。