「戦犯」を裁くためではなかった
実は藤田の招聘は、戦犯としてではなく、ブルッキングス市の地元で行われるお祭りへのゲストとして招くためでした。かつてこの地への爆撃に成功した敵国の英雄を招こうと企画されたものだったのです。これには当の本人の藤田も大いに驚くとともに、そのあまりの歓待ぶりに感激して、自決用に持ってきた刀をそのままブルッキングス市に寄贈しています。
この時の訪問以降も、藤田とブルッキングス市の交流は続きました。藤田自身がお金を工面してブルッキングス市の高校生を日本に招いたことがあったほか、1990年、92年、95年にはブルッキングス市を訪問しています。95年の訪問時には、当時の市長を同乗させながら自らセスナ機を操縦し、かつての空爆航路を飛んだと言われています。
それから2年後の97年、藤田は85歳で亡くなりましたが、その直前にはブルッキングス市から名誉市民の称号を贈られています。空爆から始まった藤田とブルッキングス市との縁は文字通り終生続く交流となったわけです。
米国が藤田を戦犯ではなく敵国の英雄として扱った背景としては、空爆で人的被害が全く出なかったことが大きいでしょう。仮に死者が出ていたら、戦犯として懲罰を受けていたかもしれません。
ただそれを差し引いても、かつて空爆を行った相手をゲストとして招いた米国、というよりブルッキングス市の度量の深さには恐れ入ります。同時に藤田に米国からの呼び出しを告げた池田勇人首相は、国家ぐるみの壮大なサプライズを仕掛けたようにも見えます。もちろん悪気はなかったと思いますが。
以上のように、米国本土への史上唯一の爆撃に成功したパイロットは、戦後の日米交流の1ページを彩る人物となりました。日米の戦後における1つの“ノーサイド”とも言えるエピソードであり、後世に伝えていきたいと筆者が常々感じる第2次大戦にまつわる逸話でもあります。
(参考資料)
・『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』(日本テレビ、1995年12月29日放送)
・大分県豊後高田市ホームページ