こうして困難な作戦を成し遂げ九死に一生を得て帰還した藤田でしたが、軍部へ出頭するや、上司からの厳しい叱責が待っていました。というのも、藤田の落とした焼夷弾は森林地帯で燃え広がらず、木を数本なぎ倒しただけで終わっていたからです。結果が伴わなかったことから、作戦は軍部では「失敗」として扱われました。

突然、首相から呼び出される

 米本土爆撃作戦の後、藤田は航空隊の教官となり、終戦間際には特攻隊に配属されたものの、実際に出撃する前に終戦を迎えました。

 終戦後もパイロットとして方々から誘いを受けていましたが、藤田はそれらを断り、茨城県土浦市の工場で働き続けました。しかし1962年のある日、政府の役人から都内の料亭に来るよう告げられます。呼び出されて訪れたその料亭では、なんと時の総理大臣の池田勇人と、官房長官の大平正芳が待っていました。

 2人は藤田に対し、米国が藤田の行方を探していることを伝えた上で「日本政府としてはこれに一切関与しない」と述べました。言うなれば、煮るなり焼くなり米国に全部任せるといったところで、これを聞いた藤田は即座に「米国が報復に来た」と感じたそうです。

 その後、米国側から正式に連絡があり、藤田は米国へと連れて行かれることとなりました。戦犯として裁かれ、処刑されることを覚悟した藤田信雄は、自決用にと家宝の日本刀を携え、かつて自分が空爆を行ったオレゴン州ブルッキングス市へ向かいました。

 現地に到着した藤田が戦々恐々としてタラップを降りたところ、その眼下には、思いもよらぬ光景が広がっていました。多くの市民が明るい笑顔で藤田の来訪を歓迎してくれていたのです。